碧き波の彼方に 第三話

瀬戸内海を望む地方都市で慎ましく暮らす玲奈は初めての妊娠に戸惑いとときめきを感じながら過ごしていた。彼女の身にふりかかる運命とは。そしてベテランの産婦人科医鹿取祐輔は玲奈に対して何ができるのか。“産まれる”というあたりまえの出来事をとりまくそれぞれの運命を語る。

碧き波の彼方に

第三話

「ただいまー、どうだった」

本橋翔太はドアをあけるなり、ハアハアと肩で息をしながら入ってきた。社宅の4階まで急いで階段を上がってきたのだろう。しかも額の汗をみるかぎり、向かいの工場から走ってきたに違いなかった。

「そんなに慌てなくても、ラインで送ったじゃない」

「まあ、そうだけど」といいながらも玲奈の顔をみるまでは落ち着かなかった。「まだ、早すぎるって」といいながら玲奈はまだ胎嚢がみえない子宮の画像を翔太にみせた。

「そうかあ。検査薬で陽性ってでたから、赤ちゃんがもういるのかと思った」

大きな溜め息を吐きながら右手で頭を掻きながらダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。

翔太は地元の高校を卒業した後に自動車工場に入社した。国内二番手の自動車メーカーの組み立てラインがあるこの街は、各種部品メーカーや関連産業が集まっているため工場労働者の人口比率が高かった。翔太の父も下請けの部品工場に勤めていたが、翔太はメーカーへの就職を希望していた。メーカーの業績に左右させられる系列会社の悲哀を子供ながらに昔から感じ取っていたからだった。地元の商業高校を卒業する際、親からは大学進学を勧められていた。大卒のいない翔太の家族にとって学士になることはいわば憧れであった。大卒と高卒では現実的には出世の道は異なる。それを危惧した父の勧めだった。しかし、リーマンショックで落ち込んでいた業績が上向きとなり、一時期ストップしていた地元採用が再び行われるようになったこともあって、翔太は大学進学を希望せずメーカーへの就職を選んだ。中学、高校と野球部で過ごしていたため沢山の先輩達が同じメーカーに勤務していたことも大きな要素だった。大学に行った先輩達からは呑み会やバイトの話しかきけず、また、結局大卒と言っても、卒業大学が就職後も左右する美しいまでの偏差値による序列社会はあからさまだったので、早く手に職をつけたいというおもいが強かったのもあった。仕事の内容は組み立てラインの作業機械の保守で、手には機械油のにおいが染みこんでいた。

「来週、また産婦人科に行ってくるね」といいながら玲奈はスーパーで買ってきた総菜を盛りつけたお皿を申し訳なさそうにテーブルの上に出した。

「ごめんね、なんだか料理すると気分が悪くなってしまうの」

「無理しなくていいよ」

玲奈の手料理じゃないことに少しがっかりしたが、これがつわりなんだろうなと思って翔太は納得した。

鹿取医院から車を飛ばして大学病院に戻った祐輔は、駐車場に車を止めると急いで医局のある研究棟に向かった。研究棟には各診療科が講座として各フロアを陣取っていた。各フロアには2つの講座があり産婦人科のフロアの向かいには小児科が、上には胸部外科、下には麻酔科があった。診療科の集合体である研究棟はそれぞれの診療科の情報交換が円滑であれば有機体としては申し分ないほどに機能するはずだったが、現状は「隣の医局は外国より遠い」と言われるほど縦割りの組織だった。患者に不測の事態が起きた際、担当医同士での相談に勝るものはなかったが、それぞれの医局でのカンファレンスや各診療科の責任者である教授同士のコミュニケーションの度合いによっては官僚組織のように面倒なことが起きるのが常だった。

医局の講師室に入り、上着を脱いで白衣を羽織ると、とりあえず鹿取医院に連絡をくれた武田篤史のPHSを鳴らした。肺血栓塞栓症の患者の状態を確認すると、ラウンジを挟んで講師室の向かいにある教授室のドアをノックした。

「失礼します」といいながら教授室に入ると、革張りの背もたれの高い重役椅子にもたれながら、マホガニーでしつらえた光沢のある両袖机の上の書類に目を通していた浦沢信蔵が返答した。

「先生、武田から報告があったかも知れませんが、昨日のカルチの光浦さんがPTEになりました。今は循環器内科の管理で落ち着いているようです」

「ああ、さっき武田君から報告は受けたよ。最悪の事態じゃないようだから安心したけど、まだ余談は許さないだろうから君も目を配っておいてくれ」

そういうと顔をしかめながら浦沢は両手を胸の前で組んで深い溜め息をついた。

「なにか、ありますか」と祐輔は浦沢の気むずかしい顔がもっと気むずかしくなったのに気づいて尋ねた。

「いや、循環器内科だろ、診てくれているのは。ほら、来年の病院長選挙でどうやら消化器外科の吉沢教授と循環器内科の真島教授の一騎打ちになりそうでね。まだ先の話だけど、吉沢教授には僕が教授に選ばれた際に世話になった負い目もあるから、あまり吉沢教授に借りはつくりたくなくてね。色々面倒なんだよ」

そういうと浦沢は再び深い溜め息をついた。

祐輔は「そうなんですか」といいながら、とりあえず患者の状態を診てきますといって教授室を後にした。

相変わらず内部政治が好きな人だな、と浦沢のことを評しながらも彼の立場も理解した。組織はある程度は力関係でなりたっている。力を得なければなにもできないこともある。今度の病院長が誰になるかによって3年後に竣工する新病棟での各診療科の割り振りも左右される。当然、勝ち馬に乗れなかった診療科は日の目を見なくなる可能性がある。ただでさえ産婦人科医は不足し、特に地方大学へ入局する医師は皆無に等しいといってもいい惨状の中で、研究一筋だった浦沢が、新病院でのプロジェクトを立ち上げることで何とかこの地域に産婦人科医療を支えようと奮闘する姿を見ると、学者も俗世に揉まれて変わっていくんだなと、祐輔は一抹の寂しさを感じた。

祐輔が集中治療室に入ると丁度家族への説明を終えた武田がやってきた。そばには武田の同期で循環器内科の石井がいた。

「おつかれっす」

石井は武田より先に祐輔に挨拶した。

「その、れっすてのはいい加減やめろよ、石井。ところでどう」

石井は祐輔と同じサッカー部の後輩だった。部活における先輩後輩は決して覆ることのないヒエラルキーを体現するものだった。ただ、こうした繋がりがとかく縦割りと言われる大学病院において横糸として一枚の布を作り上げるのに機能していた。肺動脈に認めた血栓は思ったよりも大きくなく、患者の生命予後には影響を与えなさそうだった。祐輔はそれを確かめると一安心したと同時に、PTEからの回復を待つために術後の抗がん剤による化学療法の開始が少し遅れることを危惧した。

「じゃあ、後はよろしく。何かあったら携帯に連絡してくれ」

石井と武田の肩をポンと叩きながら祐輔は集中治療室を後にした。時計に目をやると丁度21時だった。

「さて、祐司の塾の迎えまで書類仕事でもするか」と考えながら再び研究棟に向かっていると、携帯が鳴った。液晶画面には、小林孝彦と名前があった。小林は鹿取医院のある街の総合病院の産婦人科副部長だった。

「どうした、小林。そういえばこの前は親父のとこからの母体搬送の受入ありがとう。ところでどうした?」

「いやー、鹿取。ちょっと困ったことが起きてな」

その声色は深く沈んでいた。

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