碧き波の彼方に 第六話

瀬戸内海を望む地方都市で慎ましく暮らす玲奈は初めての妊娠に戸惑いとときめきを感じながら過ごしていた。彼女の身にふりかかる運命とは。そしてベテランの産婦人科医鹿取祐輔は玲奈に対して何ができるのか。“産まれる”というあたりまえの出来事をとりまくそれぞれの運命を語る。

碧き波の彼方に

第六話

スマホの画面に表示されたLINEのメッセージは「今から帰るよ」と淡白な文章だった。鹿取由希子は、いつもとかわりない祐司からの連絡を受け、おもむろに鍋に水を満たしてクッキングヒーターのスイッチを入れた。塾を終えた祐司は迎えの祐輔の車に黙って乗り込んでいるのだろうと想像した。母親である由希子が迎えにいったときでさえ、反抗期なのかつっけんどんな態度をとるのに、父親との間でどのような空間を作っているのだろうかといぶかしく思った。

鹿取家は塾から車でちょうど20分の距離にあった。海沿いの小高い丘の上にあり、周囲は造成された新興住宅地のため小ぎれいな街並みをつくっていた。公務員や地元の有力企業に勤める会社員、大学病院で働く医療従事者の家庭が多く、地域としては比較的教育熱の高い場所だった。そのため、時々祐司の友人も一緒に連れて帰ることもあるし、鹿取家の都合がつかなければ逆に友人の家族に同乗をお願いすることもあった。

「きょうはどうだった」

祐輔は車を運転しながら隣に座る祐司との間に漂う沈黙を打ち破りたくて、それとなく尋ねた。

「別に」

祐輔の期待も虚しく祐司の返事はいつも同じだった。TwitterかLINEで友人と会話しているのか、「これ以上話しかけないで欲しい」という態度を暗に見せながら、祐司はスマホの画面に没頭していた。

「こいつの反抗期はいつになったら終わるのだろうか」と、心の中でつぶやきながら祐輔は諦めて車を飛ばした。まあ仕方ないかと独りごちて車が進む先の道路を眺めていた。

鹿取家では由希子がラーメンの袋をあけインスタント麺を鍋に入れたところで車の止まる音がした。

「ただいま、ご飯は?」

帰るやいなや祐司はご飯について尋ねた。これもいつものことだった。塾に通う日は学校の部活を終え直せず塾に向かうのが祐司の常だった。塾が始まるまでの間に友人とコンビニで買った夕食をどこかで食べるらしいが、育ち盛りの男の子だからだろうか、塾が終わる頃にはお腹がすくらしい。帰宅するとラーメンやスパゲティと祐輔がとるはずの夕食と同じメニューを平らげるのが常だった。

駆け込むようにラーメンをすすり、豚肉のショウガ焼きを食べている祐司の向かいで、祐輔はゆっくりとビールを飲んでいた。このところ夜は研究会が続き昨夜は実家の鹿取医院に泊まったので、久しぶりの由希子の手料理を楽しむ時間だった。祐司の食べっぷりも相変わらずだなと静かに見つめていた。

「ごちそうさま」と言って、二階の自室に向かった祐司を見つめながら、一杯目のグラスを飲み干すと祐輔は大きな溜め息をついた。

「どうしたの?さすがに疲れたの、それとも、鹿取医院でなにかあったの?」

由希子はいつもと違う祐輔の少しだけ憂鬱そうな表情をそれとなくみてとって尋ねた。

「うーん、なんだかなあ。大変なことが起きるかもしれない」

二杯目のビールをつぎながら祐輔は返答した。

「大変なことって?」

「いや、さっきね。小林から電話があって。ほら県立病院の小林」

「ああ、小林先生ね。県立病院で何かあったの?」

祐輔は頷くようにひと呼吸を入れて応えた。

「妊婦が一人死んだらしい」

由希子は一瞬、驚いたような表情をしたが祐輔の言葉を反芻して静かに尋ねた。

「何か合併症でもあったの?」

元医療従事者らしい冷静な問いだった。

由希子は祐輔が働く大学病院の助産師だった。祐輔が入局してきたときには産科病棟で働き始めてすでに1年が経過していた。といっても当時は助産師になるのに4年、医師になるのに6年の高等教育の年月が必要なため、由希子は学年で言えば祐輔より1学年下だった。助産師として地元の大学病院に就職し8年間の産科病棟経験を持っていたため、最新の医学事情には疎いものの祐輔との会話で不自由することはなかった。

「うーん、それが無痛分娩後の出血らしくて、まだわからないらしい」

「へぇー、県立って無痛はじめているんだ」

「いや、県立じゃなくて開業医からの搬送らしい」

幼き我が子を産んだばかりの母親が予想もせず他界したというショッキングな出来事にも、医療従事者の家庭の会話は淡白なことが多い。「可哀想」「家族が気の毒」「子供が哀れだ」という感情的な単語や「医療ミス?」「不手際?」「事故?」といった非難めいた言葉が前面に出る前に、医学的な状況はどうなのかということが会話の中心になる傾向がある。また、病気や死はいずれ誰しもに訪れるものだという観念が二人にはある。

由希子には医療とは無縁の世界で生きている両親と妹がいる。以前、由希子の父親が肺癌を告知された時、父親本人は勿論気が動転していたが、母親も妹も驚きと悲嘆にくれたものだった。そんなときでも由希子だけが冷静に受け止め、「癌は3人に一人がなるんだから、仕方ないよね。たばこが悪かったのかもね。これから手術と抗がん剤で頑張ろうね」と淡々とした態度で接していたため、母親や妹からは「あなたは冷たい」と叱責されたこともあった。そんな母や妹も今では父の今後の治療については元医療者の由希子の判断に頼らざるをえない。か

「死因がわからないとどうしようもないんだけど。それ以外にも」

思わせぶりな態度をしながら一旦グラスを置いてリビングテーブルに向かった祐輔に向かって由希子は尋ねた。

「それ以外って?なにか、医療事故なの?」

うーんと頸を横にふりながら肯定とも否定ともつかない動きをしながら祐輔はテレビのリモコンボタンを押した。

リビングにしつらえた液晶テレビは22時台のニュース番組を映しだした。そこには祐輔が説明したかった影像が映し出されていた。

「元アイドルの向井優奈さん死去。出産時の大量出血が原因か」

画面の下段に表示されたテロップと共に、その向こうに県立病院が映し出されていた。

「えーっ、あの向井優奈ちゃん!」

由希子は思わず驚いて声をあげた。

「そんなに驚くなよ」

「だって、あの優奈ちゃんでしょ」

「そんなに有名なのか?」

「だってこのあたりでアイドルになる人っていないじゃない。なんで、なんで亡くなったの?」

いつの間にか元医療従事者から一般人への態度に由希子は変貌して尋ねた。

「わからん。それはこれからだな」

祐輔はテレビ画面を見つめながら二杯目のビールを飲み干した。すでにSNSはおろか全国ネットの報道番組で情報が広がっている。明日からしばらくは大変になるだろうなとまた一つ深い溜め息をついた。少し冷めかけた豚肉のショウガ焼きを頬張りながら当事者でもない自分がどのような役回りをすべきか思いを巡らせていた。

県立病院では、産婦人科の小林と救命救急の山下が地元の警察署から駆けつけた刑事にいきさつを説明していた。急激な経過を辿った母体死亡、元アイドル、個人開業医での異変、搬入時の心肺停止、そして、メディアの殺到という事態に、病院長としても異状死としての届け出を避けることはできなかった。所轄の刑事も医療事案を扱うことには慣れていなかったが、警察には警察の論理があった。一人の人間が死に至ったという事柄に対して、事件性があるのか、事件性があるとしたら過失は誰にあるのか、故意におきたことなのか、刑事にとってはそれが交通事故であろうが医療事故であろうが、道路上で起きたことであれ、医療施設内で起きたことであれ、論理の進め方は同じであった。故意な過失であればそれに関与した医師は犯罪者となりうるが、合併症であれば医師に過失はない。「異状」という言葉が孕む意味は時として余りにも深遠である。

優奈の死に事件性が疑われれば司法解剖の必要があるだろう。事件性がなくても死の過程が説明できなければ家族は納得できない。家族が医療者側にすでに不信感を抱いていれば警察としては司法解剖を行うことになるだろう。小林は冷静にそう思った。産婦人科医である小林にとって妊産婦が目の前で死亡するということ自体経験がすくない上に、警察に事情を説明するとなれば未経験だ。小林の脳裏には優奈の死因と思われるいくつかの鑑別疾患が浮かんではいたが、いずれもこの時点では解剖という手段しか解決する手はなかった。ただしできれば司法解剖は避けたかった。

事件報道などでは司法解剖によって明らかになった死因をもとに事件を解決するような事案を目にすることがある。医療行為中に家族を失った遺族の中には事件性を疑い、警察に訴えることで司法解剖を希望する場合もあるという。しかし、司法解剖は事件性の面から情報を扱うため極めて秘匿性が高い。どのような立場であれそこに関わった人はすべて被疑者となりうる。向井優奈が司法解剖となれば、当然ではあるが水田院長にはその情報はもたらされないが、小林や山下にも秘匿される。何らかの情報が漏れればその情報を有利に利用されかねないとの観点からみれば情報はまったく遮断されるのが当然だ。しかし、そうなると医師が医療施設内で行うような「デスカンファ」といった症例検討を行うことができない。複数の専門家が知識を駆使して患者が死に至った原因や経緯を議論するということができなくなる。そのため、小林としては向井優奈についてはできるだけ病理解剖が望ましいと思っていた。

警察は家族にも報道関係者にも事情をきいた。夫は分娩に立ち会っていたし、取材クルーも児の誕生の瞬間の優奈の表情を捉えていたはずだ。救命センターの面談室から刑事が出てきた後で、小林と山下は家族に尋ねた。

「先ほど説明した病理解剖の件ですが、ご家族の中で話はまとまりましたでしょうか。優奈さんの死因を解明するにはできれば体を調べさせて頂きたいというのが私たちの考えです」

落ち着いた口調でもう一度家族に尋ねた。

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