人がヒトを選ぶということ

7月5日夜からの九州北部の豪雨による被害を案じていたとき、私が関わった双子の子供達とその家族が心配になって思いを巡らせましたことを記します。

出生前診断の目的には、「その診断をその子の将来に役立てたい」という考えがあります。私が主戦場としている胎児診断・治療の分野では、超音波診断の発展や手術器具、薬剤、母体管理、新生児治療などの発展によって、四半世紀前では不可能と想われたことが子宮の中で行われるようになってきました。

二十年前には双胎間輸血症候群で「今にも危ない」と診断した胎児達を急いで帝王切開をし、お母さんのお腹の中から取りだし保育器に運び、点滴をし人工呼吸をし夜通しあくせく治療していました。今でもそのような状況は必要ですし、胎児治療が行えるようになっても、多くの子供達は未熟な状態で産まれるのに変わりはなく、周産期母子医療センターで賢明な治療が全国、いや、世界各国で行われています。

そんなとき、胎児診断の進歩の素晴らしさが小さな子供達に輝かしい未来をもたらすのではないか、そして、そこに自分も関われるのではないか、という大きな希望と喜びを抱いていました。

これらのことを発展させてきたのは、私の遺伝子でもないですし、ある特定の遺伝情報でもありません。ただただ、ヒトが人類として文化的・創造的な生き方をしてきた結果なのでしょう。大脳皮質を発達させ、そこにとてつもない神経ネットワークを巡らし、そして、遺伝情報とは別に書物などで情報伝達を行ってきた結果なのです。

トンボだって蛙だってミツバチだってできなかった世代を超える情報伝達です。

その一方で、出生前診断は「命の選択をする手段」になってきました。超音波検査でみえてしまったが為に告知せざるを得ないという場合もありますし、胎児の染色体異常の確率を算出できる診断技術も普及しています。加えて、新型出生前診断という言葉で世界的に拡がりを見せているNIPTという技術により、遺伝子レベルでの胎児の情報さえも妊娠初期に把握ができるような時代になってきました。

なぜ、九州北部の集中豪雨を期に考えが錯綜したかというと、ヒトの遺伝学的情報の変化とヒトの文化的・創造的発展と自然災害のギャップに痛感したからでした。

私たち現代人は、「石器時代や縄文時代のヒト」と「インターネットや量子力学、宇宙開発、AIなどの人知の叡智を駆使している今の私たち」は“違う”と考えがちです。

しかし、遺伝子レベルの情報で言えばそんなに大きな変化は来していません。驚くべきことのようですが、そんなに遺伝学的情報は変化しないのです。

これが何を意味するかというと、実質的な細胞内の染色体内の遺伝情報は変わらないのに、ヒトはその活動においてとてつもない想像力を獲得しそれを伝承することで発展してきたということです。

いいかえれば基本的な設計図は同じなのに、手こぎボートしかできなかったはずなのに言い伝えを繰り返していたら空を飛べるようになったということです。

もし仮に今産まれた子供達を石器時代に戻したら、はじめ人間ギャートルズみたいにマンモスを追いかけることに日々を費やしていたかも知れません。反対に、縄文時代の産まれたばかりの赤子を現代で育てれば将棋で30連勝したかも知れないですし、バルセロナでサッカーの貴公子になっていたかもしれません。

そう思ったとき、今の出生前診断という、胎児の遺伝情報を気にする状況というのは何なんだろうかと思うようになりました。遺伝情報がヒトを規定するなら、総理大臣も大統領も、法王も僧侶も、悪人も善人も、金メダリストも凡人も、すべて設計通りになるはずです。単細胞生物や細菌、多分昆虫などは遺伝情報によって規定される「生き方」が大半でしょう。もし人間もそうなら、僕自身、今の生き方が予想されていたはずですが、そんなはずはありません。

そうではなく、人類は、「遺伝情報ではないことをとてつもなく利用して生きている」存在なのではないだろうか、と思います。

ソクラテスの子孫がずっと哲学界を支配してませんし、ニュートン一家がずっと物理学を牛耳ってもいません。

もしくは、あまりにも利用していない遺伝子が多すぎて、本当に設計図を利用し切れていないのかもしれません。

いずれにしても私たちは今、遺伝情報というものにとらわれすぎて、ヒトが人間らしい文化的営みを行うこと、遺伝情報とは異なる叡智を駆使して物事を豊かにすることの無限大の可能性を見落としがちになっているのではないのだろうか、と思うようになってきました。

これまでも自然災害は数え切れないぐらい私たちの心に悲しみをもたらしてきましたが、今回、九州北部への甚大な被害が懸念されるというニュースを眺めていたときに、私が胎児治療の一つの手技である胎児鏡下胎盤吻合血管レーザー凝固術を学び山口で治療をはじめてそんなに年月が経過していないときに、おそらくあの豪雨が予想される地域に住んでいるであろう治療を行った子供達のことが思い浮かんだのです。

「そういえばあの子達は大丈夫だろうか」

その気持ちを抱いたときに、テレビの画面に映し出される雨雲レーダーの画像を見ながら感じたのは、どれだけ人間が科学を発展させても、自然災害というものに対して無力なのかも知れないという寂寥感でした。

決して諦めの感情でもありませんが、ヒトがヒトとしてもともと生きてきた数万年前からの状況において、ヒトだけが生物界の王のように君臨してもかなわないものがあるんだという諦めの感情を抱きました。

ただ、それと同時に、数万年の間の生物学的な変化はなくても、文化的というか知的というか、ともかくヒトは脳自体の構造は変わらないかも知れないですが、その機能を駆使し、「もしかしたらお母さんの中で命のともしびを消してしまうかもしれない」状況の子達に対してさえ、救える手段を提供できるような叡智を発展させてきたんだという人類としての誇りをあらためて自覚したのでした。叡智を駆使すれば助けることがある命があるんだということでした。

だからこそ、テレビ画面をみながら大げさかも知れませんが「人類の叡智の結晶のその一片かもしれないけど、人類らしく自然災害に負けずに無事でして欲しい」という思いがこみ上げてきました。

まだまだ災害の報道は続くでしょうし、哀しいニュースも耳にするかも知れません。

でも、私たちはいつまでも人類の叡智を駆使してもがきながら生き延びようとするんだろうな、ということを実感しています。双子の子供達のことだけでなく、人類の発展を祈っています。

と同時に、本当に今の私たちの感覚というか感情だけで、ある遺伝情報の人たちを排除することが妥当なのか、を考えるときが来ているのではないかと唐突に思っている次第です。

私にできること、といいつつまだまだ満足がいくことではないですが、自分の置かれた立場と能力を駆使して、現代の人類らしく奮闘していきたいなとおもっています。

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