碧き波の彼方に 第九話

瀬戸内海を望む地方都市で慎ましく暮らす玲奈は初めての妊娠に戸惑いとときめきを感じながら過ごしていた。彼女の身にふりかかる運命とは。そしてベテランの産婦人科医鹿取祐輔は玲奈に対して何ができるのか。“産まれる”というあたりまえの出来事をとりまくそれぞれの運命を語る。

碧き波の彼方に

第九話

優奈の解剖を終え、大学病院から車を飛ばして県立病院に戻った小林は、所定の駐車場に車を停めるとその足で院長室に向かった。外来用の駐車場には、報道関係の中継車と思われる車両が数台停まっていて、玄関先にはテレビ局、新聞社などの報道関係者が陣取っていた。

優奈の死後、病院を出入りする病院関係者にインタビューを申し込もうと話しかけていた報道局のレポーターと思われる姿も今は認めず、じっと人の出入りを観察しているようだった。すでに彼らの次なる目的は定まっていた。

病院に入り院長室に出向くと、院長はさっそく山下救命救急センター長、事務部長と総務課長を呼び寄せた。

「マクロの結果はどうだった」

皆が揃ったところでソファに座った小林に相沢院長は身を乗り出すようにして早速尋ねた。

「肺血栓塞栓症や子宮破裂といった明らかな所見は認めませんでした。他にも脳出血もなく、ミクロを待たないと何も言えないようです。子宮の重量は1000g程度と重く、経過から推定するに羊水塞栓症の可能性が高いとは思いますが、ミクロの所見と当院で採血した血液検査の詳細が出ないと何も言えないですね」

小林はわかる範囲の事実を端的に述べた。

「小林先生、一つ訊いていいですか」

山下が発言した。

「羊水塞栓症ならもっと早くに心肺停止になるのではと思って」

「確かに。一般的な羊水塞栓症では心肺停止が起こるんだけど、最近、子宮型と言われるタイプが明らかになっているんだ。どちらかというとDICが急速に進行するパターンで、まだ世界的な認知には至っていない病態らしい。この病態については、この数年、僕たちの業界では話題になっているだけどね」

「その診断はどうすれば可能になるんでしょうかね」

二人の会話に挟むように院長が尋ねた。

「そうですね。先ほど述べたように、病理解剖の組織所見と、あとは血液検査による精査が必要です。いずれにしても今の時点でははっきりとしたことは言えないですね」

「うーん、困ったな」

相沢は院長室の天井を仰ぎながら深い溜め息をついた。

「よろしいですか」

山本事務長が発言した。

「構わない、続けてくれ」

「院長、ありがとうございます。それでは、現時点での当院の抱える問題点について私なりに整理したものを述べさえて頂きます」

山本は事務方らしく、冷静沈着に説明をはじめた。

「向井優奈さんの死亡については以下の点について今後の対応が必要と思われます。まず、第一に、救命救急センターに重症患者として搬入された患者さんが当院での医療行為を受けたにも関わらず死亡したという点です。この点については、つまり、死因と医療行為上の問題点の有無の2つについてご遺族への説明が必要になります。幸いといっては失礼ですが、ご遺族が病理解剖に同意頂いた時点で、死因究明へのご協力が得られていると判断できますので、まずは現時点での、つまり解剖の第一段階が終わった時点での情報をご遺族に説明して頂きたいと思います。医療行為上の問題点については、素人の私では判断つきかねますが、小林先生、山下先生からのお話しをお伺いする限り、当院での医療行為についての問題はないかと存じます。ただし、今後、何らかの法的な問題が生じた場合を考慮し、当院の顧問弁護士に連絡し法的な観点からの検討を進める次第です。この点につきましてはすでに相沢院長に了解を得ております。なお、搬送元の医療機関、水田レディースクリニックでの医療行為等についての評価は立場が異なりますので当院での対応とはなりません。向井優奈さんのご遺体は葬儀社が大学病院より移送して、現在、市内の葬祭場に移されています。ご遺族も今後の葬儀の段取り等をそちらで打ち合わせされる予定ですので、小林先生にはお手数ですが、こちらにおります縄田総務課長と一緒に出向いて頂き、解剖の結果をわかる範囲でご説明頂けますでしょうか」

「わかりました。病理解剖の最終的な結果、つまり、病理診断は病理医によってなされるものですから、診断書のような文言を呈した書面での説明は難しいですが、簡単なメモ書きのような形でよいなら書きながら説明して、コピーをお渡しすることにしましょう」

小林は事務長の指示に従って対応することとした。

「山本事務長は先ほどまず第一にと言われましたが」

山下の言葉に頷くように山本が応えた。

「はい、あくまで第一のことです。通常の場合ですとこれで良いのですが、向井さんの場合は第二が問題となります」

院長室にいる一同が可能であれば避けたい問題があったが、必ずこなさなければならないその点については誰もが逃げることはできないと自覚していたが、口にしたくなかった。深い沈黙が訪れ、再び山本が発言した。

「よろしいでしょうか。皆様も覚悟されていますが、向井さんが芸能人であるということ、密着取材を受けていたということ、そして、向井さんの死がすでにニュースとして報道されているという点を踏まえますと、どうしても記者会見が必要となります。死因究明のための解剖が行われたと言うこともすでに報道されています。そうなりますと、ある程度の情報を記者会見で述べる必要があります。ただし、個人情報にもなりますし、ご遺族の同意される範囲での情報提供となります。その点につきましては、小林先生と縄田総務課長でご遺族に説明をしていただきたいと思っています。記者会見には、院長と小林先生、山下先生、そして、私と縄田総務課長、および看護部長が列席します」

小林は山本事務長の説明をききながら、深い溜め息をついた。「仕方ないか」とブラインドで景色のみえない窓を眺めながら諦めるようにつぶやいた。

記者会見を開く会議室へと続く廊下を歩きながら小林は葬祭場での一室の出来事を思い出していた。小林と縄田総務課長は、優奈の夫と両親と弟に解剖結果と記者会見について説明した。「死んでまで優奈は色んなことをさらさなければならないのか」と母は嘆いたが、「それが芸能人として生きた優奈のさだめだと思う」と父はさとした。一攫千金との引き合いに何もかもさらけ出さなければならない自分たちとは違う世界で生きる人々のことを憐れむと同時に、自分たちも予期せずメディアに顔をさらし、言葉を発しなければならない事態を憂慮した。

会議室に入ると驚くほどの数の報道陣が並んでいた。前列にはテレビや新聞社の記者が陣取り、後列にはカメラがならんでいた。時折報道番組で見かける芸能レポーターの姿もあった。卓上には、参加している報道機関のリストが掲載されており、芸能ニュースを扱うスポーツ紙や全国ネットのテレビ局に加え、大手の新聞社も陣取っていた。

あらかじめ県庁の記者クラブを通じて記者会見についての算段を行い、司会は総務課長が行うが、記者クラブの仕切り役である帝都新聞社の記者が大まかな進行を取り仕切ることとなった。報道になれていない総務課長には多くの報道陣を取り仕切るには荷が重すぎた。

「それではこれより向井優奈さんが死亡した件について、県立病院の記者会見を行います」

会見の開始の言葉と共に無数のフラッシュが浴びせられた。

「それでは向井優奈さんの死亡の経緯について、当院産婦人科担当医の小林が説明いたします」

小林は予め用意した書類に目を通しながら説明した。

「向井優奈さん、32歳。11月10日午後6時24分に当院にて死亡されました。経過を述べます。11月10日午後2時45分、妊娠41週4日にて他の医療機関にて経腟分娩で3354の男児を出産されました。その後出血、つまり子宮からの出血が大量となり止血困難となりました。当院には午後5時5分に、当該医療機関より出血性ショックのため搬送したいとの連絡があり、直ちに応諾しています。実際に当院に患者さんが搬入されたのが午後5時50分。当院救命救急センターに搬入されています。来院時心肺停止の状態で可能な限りの蘇生処置を試みましたが残念ながら蘇生に反応せず、先ほど述べましたように午後6時24分に死亡確認しています。経過は以上です。」

「それではこれよりご質問を受けします。故人は芸能人でしたが、所属の機関名と氏名を名乗ってご質問をお願いします」

ここからは記者クラブの担当者が仕切ってくれた。

「毎朝新聞の辰巳です。まず、向井優奈さんの死因について教えてください。」

質問が始まった。学会や講演会で質問を受けることがあるが、フラッシュがたかれる中でカメラを向けられての応対は慣れなかったため、小林は慎重にメモをとりながら説明した。

「現時点では、大量出血による出血性ショックが原因であるとした述べることはできません。」

「西日本日報の徳光です。向井さんのご遺体は解剖されたとのことですが、差し支えない範囲でその結果を教えて頂けますでしょうか。」

予想通りの質問だった。

「ご質問のごとく、向井さんのご遺体は今朝病理解剖されました。病理解剖は詳細な結果が出るまで時間がかかりますが、いわゆる肉眼所見というものからは明らかな死因は判明しませんでした。」

「出血性ショックが死因では?」

同じ記者が続けた。

「はい、出血性ショックが死亡に至った原因と考えます。ただし、出血性ショックの原因となった病態については今の段階では不明と言うことです」

「NBC科学部医療班の光岡と申します。分娩における大量出血の原因としてはどのようなものが考えられるのでしょうか。可能性という範囲で教えて頂けますでしょうか。」

冷静な質問が飛んだ。

「分娩後の大量出血としては、子宮筋の疲労に伴う弛緩出血、子宮筋や産道の損傷にと言った産道裂傷による出血、癒着胎盤などによる出血などが挙げられます。また、稀ではありますが急激に播種性血管内凝固がすすむ、いわゆるDIC先行型の羊水塞栓症というものが挙げられます。」

「では、向井さんはどのような状態だったのでしょうか?」

「本日の解剖所見からは産道裂傷や癒着胎盤は否定的です。詳細な診断は組織検査の結果が判明してからとなります。」

原因についての明確な説明が得られないことから、会見場の記者達はやや不満気な雰囲気となってきた。

「帝都テレビのサンデーニッポンの楠田です。当局の他部署のクルーが向井さんに密着取材をしていました。そのため向井さんの出産までの経過を私たちは情報として得ています。向井さんが出産された医療機関での対応についてはどのようにお考えでしょうか?」

「その点については、県立病院の判断の域を超えますのでご質問は控えて頂きますでしょうか」

仕切り役の帝都新聞の記者が口を挟んだ。

「それじゃあ、何もわからないじゃないか」

どこからともなく怒気を含んだ意見が飛んだ。

「人一人が死んだんだから何か落ち度があるだろう、何でも応えろよ」と、遠慮無い語句が浴びせられた。報道陣同士で記者会見に対するとらえ方が異なっていた。しばらくの間、会見場のいわゆるひな壇にいる県立病院側の面々は蚊帳の外におかれた。あまり邪推めいたことを言うとこのままでは会見が続けられないと急進的な意見の記者達をなだめ、熱気を帯びた会議室は少し温度がさがったようだった。

「県立病院へのご質問はあくまで医学的な見地でどのように思われるかということに限っていただきますがよろしいでしょうか」

仕切り役の言葉で再び会見が再開した。

「邦日新聞の久保田です。向井さんは無痛分娩で出産されたと伺っています。それは帝都テレビさんの密着取材後の死亡報道でも報じられていますがその点はいかがでしょうか」

落ち着いた態度の女性記者の質問だった。

「はい、搬送元の医療機関からの情報もそうでしたし、向井さんが搬入された時に無痛分娩で使用されている硬膜外カテーテルが挿入されていましたのでその通りだと思います」

「では、無痛分娩が出血性ショックの原因となったということはありえますでしょうか」

小林は沈黙した。その沈黙が長いためフラッシュが再びたかれた。山下も院長も心配そうに小林を見つめた。小林の脳裏には数ヶ月前から放送されている無痛分娩と母体死亡との関連を取りざたされている事件報道のことがあった。慎重に言葉を選ばなければ大変なことになる、と考え、ゆっくりと発言した。

「向井さんの経過について、搬送元の医療機関から提供された情報と当院での経過、および、現段階での解剖結果からは、無痛分娩が出血性ショックを助長したということは考えにくいと思います」

記者会見は終了した。小林達にとっては、事件性のないある患者の死亡事例について、これ以上の話題性はないと思われた。ただ、出血性ショックの原因が説明できない点は医療者としてはもどかしかった。

報道陣が次に押し寄せるのは搬送元の水田レディースクリニックだろうなと察した。

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