碧き波の彼方に 第十二話

物語

瀬戸内海を望む地方都市で慎ましく暮らす玲奈は初めての妊娠に戸惑いとときめきを感じながら過ごしていた。そんな中、玲奈の憧れである優奈が無痛分娩中に死亡し、大きな余波が訪れることとなる。

碧き波の彼方に

第十二話

「久しぶりだな、こうやって飲むのは」

小林はグラスの縁についた塩を舐めながらソルティードッグを一口飲んで祐輔に向かってつぶやいた。

「そうだな」

祐輔はそういいながら、目の前の置かれたロックグラスの中の丸いカッティングアイスを左手の中指でくるくると回しながらグラスを口元に寄せてウィスキーを一口舐めるように口にした。

「お前はいつもカクテルで、俺がいつもウィスキーってところは変わってないな」

「ああ、確かに。でも学生時代はここには来られなかったなぁ。一杯が800円とか1000円もするカクテルはさすがに頼めなかったし、もっと安い、ほらあの店で、それでも値段を気にしながら飲んでたよな」

小林は小皿のレーズンを口にした。

「確かに。モスコミュール、スクリュードライバー、ブラックルシアン、そしてそのソルティードッグ。高梨先輩がバーテンのバイトをしていたからカクテルを少しずつ教えてもらって覚えたよな。あの頃は気取って30種類ぐらいのカクテルは覚えていたし、味もわかってた気がするな。でもあの頃、モヒートはまだそんなに出回ってなかった気がする」

「そうだよな。そして祐輔はいつも気取って合コンの二次会で女の子にカクテルをオーダーするってオチだった。そこにいる女の子達それぞれに決して同じテイストではないカクテルをオーダーして、そして自分は“バーボン、ストレート”って具合だったよな」

「茶化すなよ。それがあの時代のいいとこだったのかもかな。そういうおまえこそ、結局はおれにオーダーを任せてかわいい子を口説いていたくせに。ああ、でもそうだな、なんであんなに気取っていたんだろうな。なんだかな。映画で見た俳優が琥珀色の液体を口に入れる仕草がなんとも格好良くって。憧れていたのかもな」

照れ臭そういに口元に笑みを浮かべて祐輔はグラスに残っていたブラントンを飲み干した。

カランと小気味良い音を立ててグラスの中の氷が回った。二人が並んでいるマホガニーのカウンターテーブルは上品な光沢で、天井にしつらえられたスポットライトの光線を柔らかに反射していた。その決してきらめきすぎるわけではなく控えめなダウンライトの照明の中で閑かに店内に流れるビル・エバンスの奏でるピアノの音に二人ともしばし聞き入っていた。

カウンターの中では、すっかり歳をとってしまったマスターが少し離れた場所で静かにグラスを乾拭きしていたが、祐輔に続いて小林もソルティードッグを飲み干したところで、役割を終えたカクテルグラスをしまいながら次のオーダーを何にしますかと、さりげなく尋ねた。

「うーん、何にしようかな」とでも言いたげにメニューに目を落とす二人をよそに、マスターの傍らにそっと寄り添うように立っていたママが話しかけた。

「お二人とも変わりないですね、今も。お二人が意気投合した記念に、想いでのスコッチはいかがですか」

祐輔も小林もママの語りかけに静かにうなずいた。

「想いで? そうか、確かに、ここではじめてアイランドモルトをはじめておぼてたんだっけ。いやぁー、でも、今日は嬉しいなぁ。祐輔からもう何年も前にお店をたたんだときかされてがっかりしていたんですけどね。まさかまたお店を始められるなんて」

小林が嬉しそうにママとマスターの顔を交互に眺めながら話しかけた。

「私たちもね。ずっとバーを営んできてもういいかなって思ったんですよ。幸いあの景気の良い時代に蓄えも得ましたし。子供達が成長する間も、ほら、こんな商売ですから家に帰るのは遅いし。そんなこんなしていたらいつの間にか、夫婦二人の生活になったんで、どこか二人で長旅でもしようかってことで、網に度々お店を開かないつもりだったんですけどね」

マスターが10年は経過したであろう昔の話を懐かしむように語りかけた。

「そうですよ。僕はショックだったな。まあ、お客の勝手な言い分ですが、折角馴染みのお店ができて、お酒も色々教えてもらった矢先にお二人がお店をやめるっていたので」

祐輔が懐かしそうにいいながら言葉をついだ。

「でも、どうしてまた再開したんですか? ふらふらとお店の前を通ったら灯りがついているし、びっくりしたんですよ。そう、丁度一年前だったかな」

「いやいや、確かに皆さんにはご迷惑をおかけしました。ただね、あれから妻と日本だけでなく沢山の国をのんびりと回らせてもらったんですよ。美味しい料理も食べたし、ほら、ネットで話題の絶景ポイントっていうんですかね。そういうのも数え切れないぐらい行きました。でも、さすがにこの歳でしょ。そろそろ帰国してどうしようか、って思ったときに、自分の立ち位置はここしかないって思ったんですよ」

「そうなんですよね。わたしにもここが落ち着ける場所っていうか、ひとりの人間が誰かと一緒に最期に過ごす場所はここなんだろうなって思って」

マスターとママは黄昏れた灯り中でカウンター越しに照れくさそうにこれまでのことを語った。ビル・エバンスのワルツフォーデビーが二人を包み込むように暖かなメロディーで包み込んでいた。

「そうなのかもしれないですね。人が産まれ育ち人生が熟成し、そして、晩年を過ごすというのは」

祐輔は何を思ったのか、言葉につまってカウンター越しに立っている老夫婦を眺めた。

「祐輔、ここはやっぱりちょっと古めのアイランドモルトでも飲むか」

相変わらずロマンチストだなと祐輔をみながら小林はマスターに次のグラスを委ねた。

「思い出しますね。お二人が来られた最初の時を。まだお若くてそんなにお酒をご存じなかったかと思いました。私には場違いですが熱く医療のこと語られていたのを覚えています。ほら、だって妻は帝王切開で産んでますからね。そんな話に盛り上がりましたよね。ずっとお二人ともバーボンとか、いわゆるメジャーなカクテルを飲まれていたんですよね」

「マスター、よく覚えていますね。僕なんかすっかり忘れたんですけど,そんな頃のこと」

小林が驚きながらつまみにおかれた出されたレーズンバターを口にした。

「いや、それは餅は餅屋という言葉なんですよ。先生達は患者さんに何かあればおぼえていらっしゃるでしょ。わたしにはお酒がそうなんです。お出ししたお酒が時にお客様に対して何か大きなことになる。そういうときバーテンダーというものは決して忘れないんですよ」

「そう、そしてあのときに出会ったビートのきいたスモーキーなシングルモルトにとてつもない衝撃を受けた。それが俺とおまえということかな」

テイスティンググラスに注がれたウィスキーの香りを楽しみながら、二人は琥珀色の液体を控えめに口にした。燻した煙、なめし皮、石鹸のような芳香など様々な香りが混ざり合って鼻に抜けていった。二人はしばしシングルモルトに酔いしれていた。

「ところで、その後おまえのところはどうなった」

祐輔は思い出したかのように小林に尋ねた。

「ところでじゃないだろ。おまえがずっと気にしているのは。水田の余波はかなりうちにも出てきたよ。あれだけ報道で大々的にすれば仕方ないよな。剖検結果が出たとしても、一度離れた客足は厳しいかもな」

「そんなに増えてるのか? おれも実家の外来はしていて少し妊婦が増えたかなって思ったけど、初期の妊婦が多いし」

「多分、過度な“安全志向”だろうな。ああいう死亡記事が出れば患者は急に総合病院に来るようになる。普段は病室が綺麗じゃないとか、個室じゃないとか、食事がフランス料理じゃないとかで敬遠されるんだけど。水田先生も大変だよ。もう予定日間近の人の紹介状まで書いて寄越しているよ」

「そんな状況なのか? でもおまえのところもベッドはぎちぎちだろう」

「ああ、元々5人の医者で500分娩ちょっとだろ。一年に産婦人科医一人100分娩が妥当だって学会が算出していたけど、このままだと700いや800ぐらいになるかもな。ただ病室がもうなくてな。陣痛室にそのまま戻る人もいるし、とりあえず回転をよくするために産後6日入院を5日入院にしようと思ってる。でもそれでもだめならどうするかなあ」

小林は出口が見えそうもないトンネルの中にいるかのようにつぶやいた。

「そうか。ところで、来週時間とれるか? 病理の宅間教授から連絡が来たんだ。剖検のミクロの結果が揃ったので、臨床経過ともう一度付き合わせて報告書を書きたいらしい」

「組織検査の結果がもう出たのか。速いな。それにいつもは臨床側に再度尋ねることは滅多にないのに」

「事が事だからな。もしかしたら訴訟になるかも知れないし。それこそ最期の対応をしたお前達こそ、記者会見か何か、必要になるかも知れないぞ」

深い溜め息をつきながら、小林はウイスキーを口にした。吐いた息に焦げた樽の香りを感じながら、そうだな、とつぶやいた。

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