碧き波の彼方に 第四話

物語

瀬戸内海を望む地方都市で慎ましく暮らす玲奈は初めての妊娠に戸惑いとときめきを感じながら過ごしていた。彼女の身にふりかかる運命とは。そしてベテランの産婦人科医鹿取祐輔は玲奈に対して何ができるのか。“産まれる”というあたりまえの出来事をとりまくそれぞれの運命を語る。

碧き波の彼方に

第四話

 

小林孝彦は祐輔と同級生で同期入局の一人だった。学生時代に接点があったかと言えば、まあ顔ぐらい知っているという程度の間柄だった。出席番号は近かったが、臨床実習も別の班でまわったため、6年間の学生時代の祐輔の小林に対する印象は、一生懸命テニスをして真っ黒に日焼けしていた奴ということぐらいだった。

跡継ぎである祐輔は早々に産婦人科医になることを表明していたが、同じように小林が産婦人科医になるとは思いも寄らなかった。他県出身ということもあり、誰もが地元に戻るだろうと思っていたが、祐輔にしても小林にしてもその頃の入局を取り巻く事情は厳しかった。今では医師臨床研修制度によって、卒業後2年間は初期臨床研修としてどこかの研修施設で内科や外科などを研修することが義務づけられている。つまり、いわゆる本格的な入局は卒後二年を経てからのこととなる。当時はそのような研修制度はなく、卒業すると同時にどこかの大学病院の診療科に入局していた。初期臨床研修制度によって卒業大学以外の大学病院や市中病院を選択できるしくみとなり、しいてはそれが現在の医局崩壊なる社会現象となっているが、以前はどこかの大学に入局することが半ば当たり前となっており、入局がその後の人生のすべて左右していたといっても過言はなかった。小林も地元の大学病院への入局を考えていたが、どこの大学病院でも出身大学の医師を優遇する風潮が強く断念して母校に残ったのだった。

「めずらしいな、お前が泣き言をいうなんて」

入局後、苦楽を共にするにつれ小林の実直で探求心にあふれる態度に祐輔は感心した。親の跡継ぎとして育ち、ある意味明確な目標を定めずに生きてきた祐輔には新鮮な印象だった。小林は祐輔の優しく誰でも受け入れるお坊ちゃん育ち特有の雰囲気に自分にはない懐の深さを感じていた。

「いや、まあな。俺のことならまだなんとか出来るんだけどな。実は今日夕方、母体死亡があった」

「えっ、、、」

祐輔は思わぬ小林の発言に一瞬戸惑った。沈黙で返答する祐輔に対して言葉を続けた。

「お前の地元だから説明するまでもないけど、水田レディースクリニックなんだ、無痛分娩で有名な。あそこからの母体搬送があったんだけど、うちに来たときは心停止だった」

小林は、母体死亡という不測の事態に対し神経の高ぶりを抑えきれないのか、堰を切ったように言葉を続けた。祐輔が判断する限りは、どうやら産後の出血多量が原因と思われる。しかし、先ほど起こったばかりのことなのに、なぜ小林が連絡してきたのだろうかと思うといぶかしく思った。

「まだ6時間ぐらい前のことだろう。何が困ってるんだ? 警察の介入か?」

祐輔は小林の動転ぶりが解せないらしく問いただした。

「経過の詳細はまだこれからの検討なんだけどな、亡くなった妊婦が問題なんだ」

「問題というと?」

「ほら、最近流行のAKBとかNMBとかあるだろう。そんなに有名な子じゃなかったらしいんだけど、そのどこかのグループの卒業生で、今回の出産に関してマスコミが密着取材をしていたらしいんだ。水田はホテルみたいにきれいだし、個人病院だからメディアへの対応も柔軟だったらしい。今回、妊婦健診の頃から取材に積極的に応じてたらしく、ドキュメンタリーとして取材を重ねていたらしい。昨日から分娩で入院したときも取材陣が駐車場でずっと待機してたらしくて、母体が救急車でこっちに来たときには、もうメディアが異変を感ずいていてね。今は病院の外は駆けつけた報道陣で結構ざわついてるんだ」

祐輔は小林の話をききながら冷静さを保とうとした。「妊産婦死亡率」という数字がある。実際には10万人あたりに何人という数値で公表されるが、我が国の妊産婦死亡率は4-5程度、つまり10万人に4-5人である。一年に約100万人の分娩数があることから換算すると年間40-50人ということになる。

お産は安全、と思われがちなのはこの数値の低さにもある。祐輔のいる県では年間に1万人の分娩がある。そのため、妊産婦死亡率から換算すると二年に一人の死亡があるかないかである。日本の産科医療水準は世界でもトップレベルで妊産婦死亡率でみてもその水準の高さがうかがい知れる。アメリカやヨーロッパは死亡率でみればはるかに高い。

妊産婦死亡率が低いと言うことは、妊産婦が死に至れば、それだけ稀なことが起きたということになり、センセーショナルなこととなる。癌で死ぬ、心筋梗塞で死ぬ、ということが珍しいこととして報道されることはない。しかし、比較的若い年代の女性が、生まれたばかりの赤ちゃんを残して死亡するというのは社会的にはかなりショッキングなこととなる。

「うーん、困ったな」

祐輔は突然の小林からの連絡、想定外の報道陣の密着、メディアに慣れていない地方都市での出来事という事態に混乱しながら、「とりあえず教授に報告して大学としてどういうバックアップができるか検討するから、逐一連絡してくれ」と小林に頼んで携帯電話を切った。

水田レディースクリニックはいわゆる落下傘開業のクリニックだった。通常、他の地域の医師がある地方都市で開業する場合、その地域の大学病院に一旦入局し、開業する地域の関連病院で数年を過ごして医療者同士の連携を深めた上で開業するのが定石だった。縁故を重んじる地方都市では顔の見える間柄が医療連携には重要だった。しかし、当時無痛分娩が諸事情で御法度だったこの地域に、医院開業のマーケティング業者がコンサルタントになったのだろう、水田レディースクリニックが突然開業するということは大きな衝撃だった。しかし、祐輔の実家の鹿取医院も父希祐が高齢になっており、地域の分娩を十分に支えきれる状況ではなかったため、落下傘が降下することを防ぐ正当な理由もなかった。水田レディースクリニックが開院した数年は大学医局との間もぎくしゃくしたが、県立病院に周産期母子医療センターを作ることになり、小林が赴任して以来、祐輔の仲介もあって小林と水田医院とも連携がとれるようになったところだった。

“お産難民”という言葉をご存じだろうか。産婦人科医が減少し、また、産科を対象にした医療訴訟の増加のリスクもあって、産科医はどんどん減少してきている。地域で個人開業医として分娩を担ってきた医院も院長が高齢になると分娩の取扱いを止めるところが増えている。そうなると残った分娩取扱い施設へ患者が殺到するわけだが、いわゆる総合病院では合併症のあるハイリスク妊娠を取り扱うことが多く、そこにローリスクの妊婦が集まればさばききれない。日本では分娩の半数は個人開業医が担っており、そんなに急に総合病院ですべてを担うということは無理に等しく、お互い医院にしろ病院にしろ利点を活かして共存するしかないのが現状だった。また、大都会の病院と違い総合病院といいながらもわずか4,5人の産婦科医、少なければ2,3人で毎日の当直を切り盛りするのが現状で、それでは新たに医学部に入学する学生も産科医になりたくないのも当然のような現状だった。

小林にとっては、鹿取医院の分娩取扱数が減る中で水田レディースクリニックがある程度ローリスクの分娩を吸収してくれることで地域のバランスが保てて助かるところだった。

小林も祐輔も、今回の母体死亡という出来事が、その妊産婦や家族に与える悲劇的な事実であるとともに、そのことがこの地域の状況を激変させることを予兆になるだろうという認識があったのだった。

祐輔は講師室に戻るとすぐにパソコンを立ち上げた。Yahooニュースにはまだヘッドラインに何も記載されていなかったため安堵したがTwitterをクリックしたところ愕然とした。

#アイドル急死 #妊産婦死亡 といったハッシュタグがすでにトレンドの上位にランクされていた。

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