止まらぬ出血 その5

物語

一体何が起こったのだろうか。睡眠不足で判断ができないのではない。あっという間に、まるで手ですくいとった水が指の間から流れ落ちるように、目の前から一人の命がすっと消えて行った。あえてともしびを吹き消そうとした訳ではなかったのに、必死で風や雨から守ろうとしていたのに、輝きを失ってしまった。何が起きたんだろうか、俺のどこがいけなかったんだろうか。いつ尽き果てるとも言えない問いが頭の中をぐるぐる回っていた。

救命センターの医局の片隅においてあるソファーに座って窓に目を向けると、すでに朝日が差し込んでいた。夏の照りつけるような日射しとは異なり、冬至に向かって徐々に身をかがめていくように低い位置から射し込んでくる光が今日だけは孝志にはつらかった。

 

半日前、真由美を乗せた救急車が出発して30分ぐらい経過した頃だった。山道を抜け、山陽側へと下り坂が続く道筋に入った時、車内で真由実の血圧は測定不能となった。モニターしていた心電図計でも心拍の電位が計測できなかった。急遽、車を止めて確認したが心停止だった。すぐさま心肺蘇生を開始した。気管挿管を行い、心マッサージを繰り返しながら再び救急車を走らせた。目の前でドラマのワンシーンのような光景が繰り広げられる中、同乗していた夫はずっと、「まゆみー、まゆみー」と叫んでいた。救急隊員が交代しましょうかと何度か声をかけてくれたが、その声を振り切るように孝志はただひたすら真由美の胸を押し続けた。大学病院の救命センターに到着したときには、心マのためなのか焦りのためか孝志は全身汗だくだった。真由美はすぐさま初療室に移送され救命センターの医師による蘇生を受けたがその心臓が再び脈打つ事はなかった。

「離れて。いち、に、さん」

何度か行われたDCショックやアドレナリンの投与にも一度止まった心臓はぴくりとも反応しなかった。

産科の当直医より母体救急の患者が来るとの連絡を受けて急いで自宅から駆けつけた孝志の先輩の渡部講師もその場にいた。

「すみません、先生。何をやっても出血が止まらなくて」

孝志はそれ以上何も言葉が出なかった。

「三坂、ここは大学病院だからあとの判断は俺がする。お前はあくまで紹介元の医師だ。ただお前もしばらくここにいろ。ご家族とのこともあるし、警察とかいろいろややこしくなるかもしれない」

渡部は呆然と立ちすくむ孝志の肩に軽く手を乗せて諭すように話しかけると、直ちに救命センターの医師と相談を始めた。

死亡宣告は渡部が行い患者の主診療科は産婦人科とすること、そしてできる限り病理解剖の説得をしたいと渡部が救命センターの医師に相談していた。救命センターの医師達は異状死として扱いたいと主張し、話はしばらくの間平行線だった。渡部としては大学の関連病院からの搬送患者だということ、医局の後輩の孝志が搬送した患者だったということで司法解剖だけは避けたかった。しかし、救命センターの医師にとっては突然心停止で運び込まれた状況で、それはどこか道ばたで倒れていた患者が運び込まれてきたことと同じように不可解なことだった。

医師法21条は、「医師は、死体又は妊娠4ヶ月以上の死産児を検案して異状があると認めたときは、24時間以内に所轄警察署に届け出なければならない」と規定している。しかし、この「異状死」についてはしばしば混乱が生じていた。医療行為において稀な合併症が起きても異状死なのか、そして、それをすべて警察に届け出るのか、という疑問は臨床医の間では常に議論となることだった。異状死は行われた医療行為に対して何らかの法的な問題が生じる可能性の時に限るべきだと主張する医師も少なくなかった。真由美の場合も、果たして孝志や村上らに何らかの落ち度があったのだろうか。しかし、今は原因が曖昧ということからすれば異状死と言えるかもしれない。

渡部が懸念したのはこの点だった。今は原因が曖昧と言うことで警察に届け出を行った場合、警察の判断で“司法解剖”が必要される場合もあるだろう。しかし、司法解剖は、犯罪に関係ある遺体、またはその疑いのある遺体に対して行われるため、解剖の結果の詳細が外に公表されることはない。非常に簡単な内容が家族や警察番の記者に漏らされることはあっても、司法解剖の前提が「事件」を想定しているため、「犯罪者」かもしれない医療者側にその結果が通知されると言うことは稀だった。そうなると渡部や孝志にとっては真由美の死因や詳しい身体の状況についてはわからないままとなる。

一方、病理解剖であれば、病理医が解剖し、その解剖結果の詳細は報告書として担当医にもたらされる。その結果、医学的な原因や病態などについて検討が可能となる。しかし、病理解剖は家族の同意が必要なため、真由美のように突然亡くなった症例では、同意が得られないことが多い。

救命センターの医師と渡部の間でなんどかやりとりが繰り返されたが、家族のことを考えるとこのまま時間が経過するのは許されない。結局渡部がおれて警察へ届け出ることとなった。

ほどなく、警察から複数の捜査関係者がやってきた。渡部や救命センターの医師が事情聴取を受けた後で、孝志と山本も状況説明に追われた。先に警察官に事情を説明していた渡部は、うなだれて呆然としている真由美の夫の元へ向かった。

渡部は夫に、現在、警察が判断中だが事件性がないと判断された場合、司法解剖は行われなくなるが、事件性がないといっても原因不明の出血によって死亡したことは事実であり、その原因を調べることでご家族も医療者も納得をしたいし、得られた情報で今後の医学に役立てたいと申し出た。

「先生、真由美は先ほどまで元気だったんです。頑張って頑張って息子を産んだんです。それがどうしてこんなになってしまったんですか。これ以上真由美の身体に傷をつけるなんて辛いです」

夫はうなだれながら訴えた。

「お気持ちはわかります」

渡部は夫の憤りとも訴えともつかない言葉をしずかに傾聴しだまってたたずんでいた。

「も、もし、解剖をしたら何かわかるんでしょうか」

しばらくの沈黙のあとで、夫は渡部に問いかけた。

見上げるように訴えかけたその目線をそらさぬように渡部は見つめながら返答した。

「医学はすべてを明らかにすることはできないかもしれません。ただ、真由美さんの死因については、羊水塞栓症という病気の可能性があります。しかも一般的にいわれている羊水塞栓症ではなく、急に血が止まらなくなってしまうタイプの存在が最近注目されるようになってきました。まだその詳しいことは私たち医師の間でもわかっていませんが、貴重な命を無駄にすることがなくお調べするのも私たちの仕事ですし、真由美さんの死に報いたいというのが心境です」

「羊水塞栓症、ですか」

「そうです、非常に稀なもので、数万から数十万に一人の可能性といわれています」

しばらくの沈黙の後で夫は応えた。

「真由美はもう戻ってきませんし、これから真由美の身体が傷つくのは辛いです。これから真由美の両親と弟が駆けつけますので、結論はその後で出します。」

夫の言葉を聞き終えると渡部は、わかりました、と一礼して家族控え室から出て行った。

真由美の体は初療室の横の個室に移送された。夫はそばの椅子に座って、ずっと真由美の手を握っていた。しばらくすると片田舎から真由美の両親が駆けつけてきた。真っ白になった我が子にすり寄ると年老いた真由美の母は娘を抱きしめるように泣きすがった。真由美の実父は心臓を患っていたため長くその場にいることで負担がかかるため、しばらくすると自分たちよりも早く死んでしまった娘の遺体を後にして自宅へと戻っていった。

真由美の実弟が悲しみの対面を済ませた時はすでに日付が変わっていた。両親の面会の時もそうしたように孝志と渡部から経過の説明をした。

「あんたが姉ちゃんを殺したんじゃないのか」

急いで車を飛ばして四国からやって来た弟に詰め寄りながら言葉を吐いた。

「そうかもしれない」

と、孝志は心の中でずっとつぶやいていた。孝志の横で助産師の山本は、ごめんなさい、ごめんなさい、とずっと泣きながら謝っていた。

とっさの怒りが深い悲嘆に変わっていき弟はしだいに押し黙るようになった。夫に席を外して欲しいと言われ、孝志達は個室を出て待機した。

しばらくすると夫が個室のドアを開けて出てきた。渡部と孝志の目を見つめながら訴えるように言葉を投げかけた。

「真由美がどうしてこうなったのか、私も弟も親たちも納得がいきません。そしてさっき産まれた息子もそうでしょう。大きくなったとき、母さんはどうして死んだのってきかれて応えられなかったら、私は父としてやるせないです。身体を傷つけるのは嫌ですが、解剖には承諾します。」

その言葉を聞き渡部はじっと夫の目を見つめた。

「ただ、一つ約束して下さい。なにもかも包み隠さず教えて欲しい。あなたたちに何か落ち度があるんだったら正直伝えて欲しい。それだけは約束して欲しい」

「わかりました。約束します」

そういうと、渡部達は深々と夫に向かって頭を下げた。

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