論文を書くということ
長年、医局という場にいると、そして、特に教職という立場にいると「論文を書きましょう」というのが口癖になる。
「うるさいなー」と感じている医局員も多いことだろう。
思い起こせば二十数年前に医師になったとき、先輩達に同じ言葉を繰り返し言われた。
私は論文執筆という観点では、非常に遅いライターだと思っている。教科書の執筆や解説(総説)の執筆数は年を経るに従って、その機会が格段に増えているが、いわゆる“学術論文” “Original Article”の執筆をここ数年、ほとんどしていない。
「もう教授なんだからいいでしょう」「後進の指導をするのが本筋ですよ」
という人もいるが、やはり学術論文を執筆してこそ臨床研究者の端くれのような気がしていつもどこか不満足である。
今年も楽しみな国際学会に出向く予定だが、国際学会の舞台では、相変わらず日本で言うところの「教授」「部長」といった方々が、みずから筆頭演者として発表している姿を目にする。
そんな姿を目にすると、「うーん、やっぱり俺は足りないな」と反省してしまう。
ぼやきはここまでとして、なぜ論文を書くのか、ということについて語りたい。
医学や医療は、研究の積み重ねでなりたっている。「経験がものをいう」とはいうが、その経験を裏打ちする知識、担保する技術があってこそであり、10年前にはスタンダードだったことがふと振り返るとエビデンスの無いこととなっていることが多い。
だから、論文なんか書かずに経験を積むことだよ、と述べている人もある意味自分の経験に裏打ちされた知識と技術という台上に乗っかって仕事をしているんだと思う。
ただ、じゃあ、
「なぜ論文を書くのか」
と言われれば、それが臨床研究を推し進め将来的な医療医学の発展に寄与することを目指したものであり、私はそれを医師の「責務」と考えている。
一人の患者さんから得た情報をまとめ、他の報告と比較検討し、しかも、それを学術雑誌に掲載することで、他の人もその恩恵を得られる。そして一枚の論文がわずかではあるが医学を一歩前進させる。一歩が百集まれば百歩になり、それが大きな推進力となる。
論文の書き方
この論文は、私が初めて英文で著したもので、博士号を取得したいわゆる博士論文というものである。私にとっての記念すべき論文だし、胎児の静脈管の血流を測定した日本で最初の論文だった。だからとても愛着がある。
ただ、今読んでみると恥ずかしいぐらいに論文の体をなしていない。
これまで多くの後輩達の論文の修正を依頼されてきたが、やはり、体をなしていないのが多い。
でも、これは仕方ない。なぜなら、「書き方」を誰も習っていないからである。しかも、体をなしていない論文がちまたに氾濫しているからという問題点もある。
最初から下記の松原教授が記されたような本があればもっと良かったのと思っても始まらないが、ともかく、この本を読まれるのを薦める。
この本の内容からということではなく、ともかく私が思っている論文の書き方について、下記に説明します。
それは、
1.ともかく簡潔に
2.いいたいことをはっきり述べる
3.学会発表とは違う
4.考察(Discussion)には構成がある
の4点である。
1.ともかく簡潔に
論文の中には、緒言や考察部分に、だらだらと目一杯いろんなことを書いているものを目にする。
「ドラえもんの“どこでもドア”はどこに行くにも便利である」
ということを述べたい論文があるとする。
それなのに、「ドラえもんは猫型ロボットで、西暦〇〇〇〇年に製造され、耳をネズミに囓られたためにどうのこうの」ということがだらだらと書いてあることがある。論文の主題とは全く無関係でありので、ドラえもんの過去を考察するものではないのでこのような解説は不要である。
また、「ドラえもんの道具の中には、スモールライトや翻訳こんにゃくというものがあり、特に翻訳こんにゃくは便利でパリに行ったとしてもどうのこうの」ということを考察に書くとする。今回はどこでもドアという道具について述べたいのに無関係なことを述べるのは意味がない。
わたしも以前、論文を書き始めたときは、「考察が長いほうがいい論文」「長く解説してるのが格好いい論文」と思っていた。
でもこれは大きな間違いで、簡潔かつ明瞭な書き方が必要なのである。
2.いいたいことをはっきり述べる
「どこでもドアは確かに便利ではあるが、新幹線でも結構早く目的地に着くし、飛行機だともっと早い。でも駅や飛行場はないと困るし、そういう意味ではどこでもドアはとても役立つけどドラえもんがいないとこまるし、どうのこうの」
などとぐだぐだと書かない。
「どこでもドアは便利で、私も欲しい」
と明確な主張をする。この点は日本人には特に苦手な点で、もごもごと書くことを美学と思っていると、まったく相手にされない。
論文は、論説文である。つまり、何かの説を論じることがが大切であり、ごにょごにょしないことが大切である。
3.学会発表とは違う
二十数年間からの大きな進歩は、パソコンでパワーポイントやキーノート(Macでは)作ったデータでそのまま発表し、そして、そのデータから論文が書けると言うことである。
以前は、スライド用のフィルムにデータを焼き付けて現像し、映写機で撮していた。あるいは、オーバーヘッドプロジェクターなる代物で、透明なフィルム状のシートに書いて映していた。
そういう時代から現代に至った際に大きな問題となるのが
「学会のスライドをそのまま原稿にする」
ということだ。
学会のスライドは箇条書きで書くことが多い。しかし、論文は文章である。
だから稚拙な体言止めが数多く認められ、それらは論文では受け入れられない。
たとえば、
どこでもドアの取り出しから移動までの時間:2分
どこでもドアの色:ピンク
ドアは左開き
などと箇条書きに書いたスライドを用いてそのまま論文の文章に書き込んでいることがある。さすがにこれは×である。
どこでもドアは、取り出しから移動までの時間に2分を要し、その色は赤みがかったピンク色で、どこかにかける際には左開きのドアから出発するのが常である。
と言った具合に文章で記すのが宜しい。
4.考察(Discussion)には構成がある
最後に、もっとも大切な考察の構成について説明する。
これは日本人的思考、日本人的会話では最も苦手な部分かもしれない。
日本語では、「今すぐパリに出掛けないと行けないんだけどパスポートの有効期限が切れたので今日の夕方の飛行機に乗れず途方に暮れていたらドラえもんが現れたので、なんとかしてくれ、と頼んだらどこでもドアを〇〇」
という文章があるとする。○○には「出しくれた」とも「出してくれなかった」とも書ける。
このように英文での S+V+O+Cの構成で物事を述べるのではなく、冗長に語った上で最後に主体がやってくる。
この思考過程、この記述方法が論文では通用しない。
論文における考察は、段落毎に下記のような構成になっている。
そして、それぞれの段落の中も、入れ子のように同じ構成で書くことが大切である。
つまり
1)まずは、考察の段落を分けて、それぞれ主張したいことを第一段落から順に書いていく
2)段落の中も、可能な限り第一文に主文をいれる
という構成にするということである。
なので、私がどこでもドアについて論文を書くとしてたらこうなる。
これらの順に段落を並べ、そしてその段落の中を細かく説明する、という構成になる。
つまり、論文では、最初に言いたいことを書くため、読む側からすれば、最初の段落を読めば、著者の主張や考え方がはっきりと書いてある。
この構成をなさない論文は、S+V+O+Cの構文で物事を思考する英語圏の人には読むに堪えないものとなり、結局は没にされてしまうのである。
まあ、ぐだぐだと書いてきましたが、論文を書くのは理屈+経験なので、まずは症例報告(ケースレポート)から書いて書いて、一杯訂正されて、その経験の積むのが良いでしょうね。
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