碧き波の彼方に 第七話

物語

瀬戸内海を望む地方都市で慎ましく暮らす玲奈は初めての妊娠に戸惑いとときめきを感じながら過ごしていた。彼女の身にふりかかる運命とは。そしてベテランの産婦人科医鹿取祐輔は玲奈に対して何ができるのか。“産まれる”というあたりまえの出来事をとりまくそれぞれの運命を語る。

碧き波の彼方に

第七話

携帯のアラーム音に気づいて祐輔はベッドの脇にあるサイドテーブルのスマホに手を伸ばした。昨夜の眠りは浅かった。優奈の死を報じる番組を次々とチャンネルを変えながら観た後に湯船でのんびりしていると、小林から再度連絡入った。優奈の病理解剖の連絡だった。県立病院にも病理医が在籍していたが、定年間近の病理医はこの2週間病気療養をしているとのことだった。祐輔は悪性腫瘍だろうかと勝手な推察をしたが、いずれにせよ県立病院でそのまま夜間帯に病理解剖を行うことが無理と言うことで、大学へ依頼するとのことだった。
遺族の心情を鑑みれば一刻も早く遺体を引き取りたいところだろう。夜間に解剖が終われば少なくとも翌日の日中には自宅か葬儀場へ遺体を移送できる。しかし、大学病院へ病理解剖を依頼するとなれば翌朝に移送して解剖を行うことになる。テレビドラマなどでは病理医が原因不明の遺体を解剖し、死因についてさっそうと解明するストーリーが描かれることが多い。法医解剖と混同される場合もある。またどこの施設でも解剖が可能なような幻想を抱かせるが、現実は厳しい。医学部に進学する学生の大半は臨床医を目指す。基礎系である病理学教室にすすむ学生は数年に一度である。最近ノーベル賞医学生理学賞で話題の山中教授ですら一旦臨床医を経験しているという。特に地方大学では病理医のなり手は少ない。しかし病理解剖に予めの計画はなく、人の死は突然であるため基礎系の講座の中では病理医は夜間や休日の呼び出しも多い多忙な職業である。
病理学講座の教授である宅間勇作は、県立病院からの病理解剖について昨夜遅くに依頼の連絡を受けると朝一での解剖を承諾した。元アイドルの死は病理医の宅間でさえ気を遣う事態となっていた。宅間は関西の旧帝大出身で、祐輔の2学年下になる。研究業績は抜群で若くして地方国立大学の教授に抜擢されていた。祐輔とは何度か病理解剖を通じて面識があり、祐輔に優奈の病理解剖のオブザーバーを依頼してきたのだった。
「いってきます。今日は遅くなるかも」
そういいながら祐輔は朝食もとらずに足早に車に乗り込んだ。直列6気筒のエンジンはなめらかな始動音をたてた。シルキーシックスといわれるドイツ車特有の音だった。その音を聴きながら「もしかしたら大学にもメディアが来るかも知れない」と憂鬱な思いを抱きながら大学へ車を飛ばした。
駐車場に車をとめ降りようとすると小林が声をかけてきた。
「よう」
「なんだ、来てたのか、早いな」
「まあな。これだけ騒がれているし、ともかく死因が気になるからな」
「まあ、そうだな。ところでご遺体は?」
「もうすぐ到着すると思う。ところで病理の宅間教授ってのは、どんなかんじなのか?」
小林はこれから病理解剖を指揮する宅間のことを気にかけた。
「思ったよりも臨床的っていうのか、ともかく好奇心が旺盛だな」
「好奇心?」
「そう。病理学的には血液腫瘍をメインに研究を行っていたらしいけど、胎児や新生児の解剖でも積極的なんだ。今回は妊産婦ということで得意分野ではないらしいがかなり興味を抱いているらしい」
「へえー、それは頼もしい。今回の症例はうまく検討できないと結構やっかいだからな」
小林をみつめて祐輔も深くうなずいた。
臨床医学の分野に、循環器内科、呼吸器内科、心臓血管外科、整形外科と細かな専門領域があるように病理学の分野も専門は多岐にわたっている。産婦人科に対応する分野としては婦人科病理学、つまり、子宮頸癌や卵巣癌といった婦人科悪性腫瘍を主として扱う分野が病理医の守備範囲と言える。しかし、産科の分野はその対象症例が少ないこともあり、精通した病理医は決して多くない。そのため、産婦人科医が求めるものと応じる側の間で齟齬が生じることもある。
「最近は病理学会でも妊産婦死亡症例のセッションが設けられるようになっているらしく、宅間教授はそのあたりの情報も積極的に取り入れようとしているらしい」
「それならいいけどな」
二人は並んで臨床研究棟に向かった。病理解剖が開始するまでの間に小林から再度浦沢教授に報告をするためだった。

祐輔と小林が病理解剖室に向かったのはそれから約2時間後だった。優奈の遺体はステンレス製の解剖台の上に横たえられていた。血色のない目を閉じた表情は穏やかで、皮膚は年齢のためか艶やかだった。
「始めます。まずは黙祷」
ガウンに長靴の出で立ちで、帽子とマスクで覆った顔から目だけを出して宅間はそこに揃った皆に視線で合図した。病理解剖に寄与される貴重な献体への尊敬の念を示して解剖が始まった。
皮膚色や死斑の程度、外傷の有無などの外見上の所見を口頭で述べると、祐輔に確認した。乳房の発達や乳輪の色素沈着、腹部の妊娠線は産婦人科医には当たり前の様に目にする妊娠期の特徴的な変化だったが、病理の宅間が接する機会はめずらしい。
「正期産の妊婦の所見としては通常と捉えてよろしいですね」
「そうですね。特に変わった状況ではないと思います」
祐輔とやりとりを重ねながら所見を述べている宅間をみて小林は感心した。まだ四十代半ばで教授という立場になった学者肌の若造と思っていたが、冷静沈着と同時に、非常に素直な態度をしていた。医師は専門外の分野に接するとき、とかくかたく鎧で覆った態度を示す傾向があると言っても過言はないだろう。弱みを見せようとせず、かたくなな態度になることもしばしばある。が、宅間は違った。産婦人科医の助言を取り入れながら解剖を進めていた。
宅間は助手に目配せして、優奈の頸部から胸部にかけてメスを入れた。臍部まで切開が至ったところで、切開創を逆Y字になるように両側の腹部へと延長した。
「死んでしまうと全然違うな。生きてない組織とはこんなもんか」
小林は切開が皮下組織に達してもそこから出血もなく、黄色の脂肪組織だけが露呈する光景につぶやいた。小林が病理解剖に立ち会ったのは数年前で久しぶりのことだった。
「確かに生きていたときと切ったときの印象は異なるでしょうね。でも死体から得られる情報に生きていたときの沢山の証があるのも事実なんですよ。先生達は生きた体を相手にしますが、私のような病理屋は取り出した組織から生きていた体を想像するんです」
「なかなかロマン的なセリフを吐くものだ」と思いながら祐輔が宅間達病理医の手つきを見つめていた。
「特に産婦人科医として、このご遺体から得たい情報は何でしょうか」
宅間は祐輔と小林に尋ねた。
「私たちの意見で先入観は入りませんか?」
小林がいぶかしく思って尋ねた。
「いやいや、捜査ではないですからね。臨床医が抱いた疑問、明らかにして欲しい点は私はできるだけ尋ねながら解剖をします。臨床医学の発展は目覚ましく、治療法も進んでいるので、ご遺体自体もいろんな装飾が加わっているのは事実です」
そういいながら宅間は優奈の胸部を切り開いた。
「例えば、この血性の胸水ですが、これも心臓マッサージが行われていた情報が無ければ私たちは戸惑います。胸骨圧迫という外部からの物理的な力があれば納得できますが、そうでなければ血性胸水の病態を推察するのは大変になります」
切り出した臓器は助手の病理医が計測し、重さや大きさを記録するとホルマリン溶液に入れていく。先ほどまで生命を営むための有機体を形成していた臓器がそれぞれ分断されて補完されるのだった。
続いて腹膜が切開され腹部の臓器があらわになった。腹腔内を大きく占めていたのは子宮だった。
「子宮破裂も鑑別疾患ですので、注意してみてもらえますか」
今度は祐輔が口を挟んだ。
宅間は静かに頷きながら子宮を持ち上げた。
「子宮は思ったよりも大きいですね。出産直後ということもあるでしょうが、外観の印象ではやや浮腫状な気がします」
先ほどまで新たな命をはぐくむためにその機能を果たしていた子宮は、その役割を果たし尽くしたかのようにぐったりとした印象を与えていた。
まだ子宮は靱帯や腟管で優奈の体とつながれた状態ではあったが、宅間が子宮の背側に手を入れて持ち上げると男性の手のひらからこぼれるほど腫れていた。祐輔はその子宮をじっと見つめながらつぶやいた。
「やっぱりか。かなり柔らかくて浮腫状だな」
「ああ、ここにすべての情報があるといいのだが」
小林が祐輔の言葉をつなぐように応えた。

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