止まらぬ出血 その1〜4

物語

「がんばれー」

赤白の帽子に組み分けされた子供たちが運動場のトラックを走り抜けるたびに,ぐるりと囲んだテントから親達の声援が湧き上がった.孝志もビデオカメラを構え,遂この間までよちよち歩きだった気がする我が子の姿を必死で追っていた.

「パパ,ちゃんと撮れた?」

妻の育美が心配そうに尋ねてきた.

「大丈夫,大丈夫」

そういいながら心配になって再生ボタンを押して液晶の中の我が子の勇姿を確認した.

しばらくすると小学二年の拓馬と年子の妹,由香がテント席に戻ってきた.育美が早起きをして作った三段重ねのお弁当に子供達の歓声があがった.

三坂孝志と家族がこの町に来て丁度3年になる.横浜育ちの孝志にとって本州の西部,瀬戸内海に面した地域にある医学部への進学は医師になるための単なる手段としか考えていなかった.しかし、6年間の学生生活を都会とは比べ物にならない穏やかで自然豊かな環境で過ごしている間にすっかり気に入ってしまい、そのまま大学の医局に入局したのだった.もちろん学生時代に知り合った地元出身の育美との関係も大きく関与していた.大学院を卒業し博士号を取得すると医局員の多くは一旦関連病院に派遣されるのが常だったが,孝志は研究の進行が思わしくなく、結局大学院後も3年間大学に残って臨床と研究に従事し、その後、人口4万に過ぎない地方都市にある唯一の総合病院への派遣されたのだった.病床数は200床と小規模の病院で,山陽側の都市とは車で1時間30分以上を要するいわゆる陸の孤島への派遣には少なからずショックを受けたが,技術と度胸を磨いて戻ってこいと医局上層部より送り出された.しかし,もう一人の産婦人科医である部長は定年を間近に控え、体力的にも無理ができず、夜間や休日は孝志がオンコールとならざるを得ない状況だった。月に2回の週末は大学から産直の応援があるが、緊急手術等を考えるとなかなか街から出られないことが多かった。

育美のお弁当をすっかり平らげ午後の競技を心待ちにしながらのんびりしていると携帯が鳴った。あまりの呼び出しの多さに赴任当初は「また呼び出し?」と不満そうな顔をしていた育美も3年も一緒に過ごせばすっかり慣れてしまい、いつも頑張ってねと送り出すようになっていた。

「もしもし、病棟です。明日から誘発予定だった妊娠41週の高橋真由美さんが陣発で来られました。今3㎝開大です。確かこの方の分娩は先生を呼び出しとおききしましたので連絡しました」

経産婦だから全開近くになったら連絡してくれと伝えるとため息をつきながら携帯を閉じた。

「今日ぐらい、ゆっくりしたいよな。あーあ。仕方ないか、是非先生に分娩をみて欲しいって頼まれたからなぁー、、、」

せっかくの運動会ぐらい堪能したかったせいか、孝志は不満げな顔をした。

午後は拓馬も由香も全体競技があったが,低学年の子供達の演技は、まだまだ幼稚園のお遊戯会に毛が生えたようなものだった。最後の玉入れ競技とリレーが終わり、白組の優勝が発表され閉会となったとたんに携帯が鳴った。

「はい、パパいってらっしゃい。グッドタイミングじゃない」

「うん、たぶん経産婦だからすぐ終わるよ。晩ご飯には余裕と思う」

そう言うと孝志は駐車場に急いだ。こんなこともあろうかと孝志と育美は別々の車で来ていたのでとりあえず子供達の帰りの心配は無かった。

 

3階北病棟のナースステーションに孝志が入るとベテランの看護師が声をかけてきた。

「先生ちょうどよかった、今、発露(はつろ)らしいですよ。運動会はもう終わりました?」

「ええ、何とか。心音も大丈夫そうだね」

「そうですね.そろそろ産まれますかね」

地方の総合病院では,産科病棟という独立した病棟は少ない.産科と婦人科を併せた産婦人科病棟が一般的で,中には女性病棟と称して,産婦人科のみならず外科やその他の診療科での治療を必要とする女性の病床をまとめている場合も多い.同じ階でも部屋割りで女性と男性を区別していたことから徐々に病床階を分けるように世の中の趨勢はかわりつつあるが孝志の病院ではまだまだそこまでの対応には至っていない.

産婦人科病棟には,お産関係の妊婦と子宮癌や子宮筋腫などに対して治療を必要とする婦人科疾患の患者が入り交じること,主に産科に携わる助産師の数が十分でないこともあり,看護師と助産師の2つの職種が一緒に病棟を運営していることが多い.孝志に声をかけた看護師も助産師と一緒に産婦人科病棟で勤務している,そういう立場だった.お産には直接携われないため,助産師に対してどちらかといえば多少の遠慮が生じる産婦人科病棟での勤務をいやがる看護師もいるのが現状ではあるが,孝志に声をかけた看護師は,若手の助産師では立ちゆかないほどの経験と知識を持っていて,がん患者など婦人科疾患の患者への対応に臆する傾向のある助産師達からは絶大な信頼を得ていた.

ベテランナースのコメントに促されるようにナースステーションにおかれた胎児心拍数モニタリングの画面をみると、胎児の心拍数は陣痛発作のたびにゆっくりと下降していた。陣痛、つまり収縮と共に山型に盛り上がる線がトレースされているのとは対称的に、胎児心拍数を表す線は、陣痛の山型に合わせるように凹型にへこんでいた。胎児心拍数陣痛図の所見としては、早発一過性徐脈の典型例だった。分娩が進行し児頭が産道を下降してくると、陣痛のたびに児の頭蓋内圧は上昇する。その上昇によって神経反射がおきて心拍数は低下するのだった。下がっていないときの心拍数基線は150 bpmと正常脈、基線細変動も保たれていた。産科医にとって、胎児心拍陣痛図は、これだけ科学が進歩していても50年前から変わらない児の状態を把握する大切な情報だった.早発一過性徐脈を認めるということは,順調であれば児は産道を下降し,そろそろ分娩になるということを意味していた.

児の状態が問題ないことをモニター画面で確認すると、孝志は急いで分娩室へ向かった。

ナースステーション奧の狭い通路を通って孝志が向かった分娩室は,老朽化した昭和50年代に立てられた病院の歴史を体現するような外観だった.近代的なホテルのようにきれいな最近のクリニックとは違って無機質という言葉以外には表しようがなかった。床も壁もタイル張りで、その無表情な材質が冷ややかな印象を与えていた。

分娩室に入ると分娩台の上で足を開いて砕石位(さいせきい)となった産婦の傍には助産師が2名、そして産婦の頭もとに夫がいた。

「先生、間に合いましたね。お願いします」

「あ、ううん。よかった。高橋さん、お待たせしました」

うん、うんと息んでいる真由実に話しかけながら孝志は慌ててガウンを着て手袋をはめた。真由実もいつも妊婦健診で顔を合わせる孝志の顔をみると少し安堵した表情をみせた。

「さあー、いきんで!」

助産師のかけ声と共に児頭が娩出された。孝志が赴任して来た時に新人として就職した助産師の山本が今度は息まないようにと指導しながらゆっくりと肩甲を娩出した。ほら出てきますよ、と山本が声をかけながら児を娩出したとたんに、おぎゃーと元気な声が分娩室に響き渡った。

「おめでとうございます。高橋さん、元気な男の子ですよ」

そういいながら孝志は児の顔をガーゼで拭い、少しごろごろとまるでうがいをしているような児の口腔内や咽頭の羊水を吸引した。真由美には3回目の分娩だったが今までの2回の分娩は二人とも女の子だったので待望の長男の誕生だった。夫の目にはうっすらと涙がにじんでいた。近年、日本の家制度は核家族化と共に大きく変化しているが、それでもこの街のような田舎では跡継ぎとしての男子待望論は根強く存在していた。分娩室の外の廊下には祖父母も待機しているようで、あちこちで喜びの声が上がった。

「じゃあ、先生の診察がありますから」

そういうと山本はお腹の上で抱っこされていた児をインファントウォーマーに運んだ。ピンクアップは良好で特に明らかな異常を認めないことを視認した上で、もう一人の助産師の佐々木が聴診器で心音や呼吸音を確認した。孝志は佐々木と1分8点、5分9点とアプガースコアの確認を行った後で分娩台へ振り返った。山本がちょうど胎盤を娩出しているところだった。

「ダンカンかあ。まあ、ダンカンでもシュルツでもどっちでもいいんだけどね」

そんな孝志の他愛のない発言に山本は微笑みながら胎盤を娩出終わった。

「先生だけだよね。胎盤の娩出法まで気にするの。他の先生はどうでもいいから早くしてっていうことが多いですよ」

笑みをたたえながら山本はガーゼで包むように胎盤をゆっくりと取り出した。胎盤はまるで強風で傘が反り返ったときのような形で出てきた。慎重に卵膜が切れないように胎盤を娩出し終わると山本は体を脇によけた。

「すみません、先生。少し裂傷が入りました」

そういうと山本は孝志に膣鏡を手渡し、すみやかに診察の介助に移った。

少し痛いかもしれないけど後で麻酔するからね、といいながらいま児が出てきたばかりの産道に膣鏡を挿入し子宮頸部を確認したが特に頸管裂傷は認めなかった。ガーゼで血液を拭いながら膣壁と外陰部を確認したところ、長さ2センチ程度の浅い会陰裂傷を認めたため、孝志はさっそく縫合を行うこととした。いつものように局所麻酔薬を注射器に吸いながらもう一度陰部を確認しようとしたところ、いつもより出血が多いと感じた。わずか2センチの浅い傷だったため手短に縫合しながら助産師に声をかけた。

「山本さん、手は降ろしていいからちょっと子宮をマッサージしてくれない」

少し収縮が悪いのだろうか、出血は外陰部から流れるように出てきて、みるまに膿盆に貯まった。

 

 

「先生、収縮はそんなに悪くないです。」

山本は真由美の下腹部をぎゅっと押して子宮を触知した。ソフトボールを触ったような感触があった。

「うーん,そうかぁ,固いかぁ。点滴、フリーで落としてくれる。それと点滴内にオキシトシン10単位。血圧も測って」

「高橋さん、気分はどうですか。少し押さえますよ」

孝志は左手をグッと握って膣内に挿入し、右手で子宮底をぐっと押さえた。児が出たばかりなので孝志の拳は簡単に産道の中に入った。拳を突き上げるように子宮を押し上げ、一方、おへそのあたりから右手で子宮底部をぎゅっと押して両手で子宮を挟みこむように圧迫した。確かに子宮収縮は思ったよりも悪くない。左の人差し指で子宮頸管をぐるっと触ったが頸管裂傷を思わせる断裂も触知しなかった。両手でぐっと子宮を圧迫していると膣内から流れる血液はそれほどでもなかったが、「離すと流れ出てくる」と表現するのが妥当な出血だった。

「先生、血圧は90/60です」

子宮収縮は良好、子宮内反は否定的。子宮頸管裂傷もなく、ましては膣壁の裂傷は出血源とは無関係。子宮を双合診にて圧迫しつづけながら,孝志は出血の原因について思案した。山本が差し出した血圧計の液晶画面を確認すると、確かに血圧は90/60を示していたが心拍数を表す数値は110となっており、ショックインデックスは1.0を超えていた。循環血液量の減少を示す数値だ.ショックインデックスは、循環血液量が減少したときに、最初は心拍数が上昇し、その後に血圧が低下することから、血圧の低下よりも早期に出血性ショックを診断するために考えられた数値で、単純に、心拍数を収縮期血圧の数値で割り算をすれば算出できる。110÷90は約1.2となる。

「サリンヘス(人工膠質液)ある? すぐ入れて。それから産直の村上先生にも連絡して。あと輸血のオーダー!」

あいにく部長は県外にでかけていて不在だったので,大学病院から来ていた当直医に連絡した。緊急事態にはマンパワーの確保が急務である。

「わかりました。村上先生は当直室です、確か。輸血は検査技師さんを呼び出して交差試験します。何単位必要ですか」

「とりあえずRCC 6単位。あ,いや10単位」

最愛の妻が産みの苦しみを耐え抜きながらも頑張り、おまけに待望の男の子の誕生という感慨にふけっていた真由美の夫も,孝志や助産師達の慌てた様子に何か異変が起きている雰囲気を感じとった。

「先生、大丈夫でしょうか。どうしたんでしょうか」

妻の傍で手を握りながら夫が心配そうに話しかけて来た。

「高橋さん、ちょっと出血が多くて止まりません。原因は分からないんですが、止血が得られるように子宮を収縮させたり、圧迫したりしています」

子宮の圧迫を続けながら予想外の出血の持続に孝志は冷静さを失いつつあったが、それでもなんとか状況を説明しようと自らに落ち着けといいきかせていた。

「とりあえずこれ以上の出血は命の危険がありますから輸血が必要になります。ゆっくり同意書をとる暇もないので、ともかくこの説明で納得して下さい。高橋さん、心配ないからね」

夫に説明しながら、つい先ほど分娩したばかりの真由美に向かって話しかけたが、真由美は疲れのためか、あるいは出血が多いためか、目を閉じたまま少しうなずくだけだった。先ほど陣痛でいきんでいたときは赤らんだ顔をしてた真由美の顔色は驚くほど白くなっていた。

自動血圧計の数値は85/55を示し、心拍数は120だった。ショックインデックスは1.5を超えようとしていた。血液があふれんばかりとなった膿盆を新しい空の膿盆に取り替えたがすでにそこには血液が貯まり始めていた。

「先生、先ほどの出血は1400gです」

「わかった、ルートもうひとつとれるかな。採血も凝固系を含めて全部やって」

冷静に、冷静にと思いつつも次第に血色が無くなっていく妊婦と止まらない出血に孝志の思考回路はこれ以上何も思いつけない程にショート寸前だった。額に汗が滲んできた。

「すみません、三坂先生、遅れて。どうしたんですか」

大学から産直応援で来ていた村上は、ともかくすぐ来て下さい、との電話を受けると当直室から慌てて駆けつけてきたが、分娩室に入った途端にその光景に一瞬息を呑んだ。分娩台の上の産婦の皮膚色は白く、血色を失っていた.孝志は両手を使った双合圧迫を継続していたが,真由美の産道に差し入れた手を伝って血液が流出していた。分娩台からはすでのおびただしい量の血液が床にしたたっていた。

「ごめん、村上。収縮も良かったし裂傷もないけど,ともかく出血が止まらないんだ。手を貸してくれ」

村上は、孝志の声に応じるように目線を合わせたが、いつも冷静沈着と言われていた3学年先輩の孝志がこれほど焦った表情をみせるのは初めてだった。

すでに2000g以上の出血があったときき,村上は気を取り直してたずねた。

「輸血は?」

「頼んではいるんだけど、、、。」

孝志の言葉が途切れたことで村上も焦燥感が募ってきた。ここは大学病院とは違う。おまけに日本海側の地方都市で,そんな簡単に輸血が手に入る場所ではなかった。

「バルーンは?バクリバルーンは?」

「残念だが、まだ購入手続きが済んでない。コストに厳しい病院だからすぐには手に入らないんだ。とりあえずガーゼをつめようと思ったけど,ともかく出血が多くて圧迫するので手を取られて何もできていない。」

村上の問いに孝志はやるせない弁明をするしかなかった。

地方都市のこの病院ではすぐに輸血が手に入るわけではなかった。子宮内に挿入し膨らませて使用する止血用のバルーンもなかった。それが地方都市の病院の性かもしれない。

「輸血がどうなったか,僕,みてきます」

村上は,ともかく輸血が先決だと思い,検査室に急ごうとした.

「わかった。ただ,まだ技師が来ていない。まだ連絡がないんだ」

「とりあえず,下に行ってきます。ノンクロスでも入れましょう」

そういうと村上は階下の検査室に急いだ.

孝志の病院には手術時の出血に対応するために若干の血液のストックはあった。緊急用の血液備蓄の必要性について,産婦人科、外科や整形外科が病院長を説得しなんとか備蓄してもらったものだったが,それでもO型RCC(赤血球濃厚液)を6単位,検査室に置いておくのが関の山だった。手術も分娩数も少ないこの病院では、輸血を備蓄しておくことはコストの面では経営上損失につながるものだった。しかも,万一使用しなかったときには備蓄血液は廃棄処分となる。献血という市民の好意によるせっかくの血液が使用されることもなく捨てられるという点からも闇雲な備蓄はできないのが現状だった.都心部の救命センターのような体制は無理なことは当たり前ともいえた。

村上が検査室へと廊下を急いでいると、ちょうど呼び出しの検査技師が駆けつけたところだった。

「どうしたんですか」

「出血が多いんだ、お産の人の。危機的出血なので、ともかく、もうクロスなしで入れないと危ない」

「わかりました。じゃあ、これを」

技師は検査室の輸血を保存してある貯蔵庫から0型の赤血球濃厚液を村上に手渡した。

「ともかくまだまだ必要。産婦はA型だからRCCをもう10単位とFFPを10単位至急欲しい」

それだけ言い放つと、村上は再び階上の分娩室へと急いだ。

頼む、なんとかもってくれ。

その想いだけを抱きながら、できるだけ早くとかけていった。

 

 

「高橋さん、高橋さん、わかりますか」

村上が息を切らして分娩室にたどりついた時、分娩台には生気を失った真由美が目をとじて横たわっていた。その血色のない表情をした真由美に向かって、孝志が必死で話しかけていた。

「高橋さん、高橋さん、わかる?」

「うーん、うーん」
と、うなずきとも、うめきともわからない受け答えが返ってきた。

「村上、助かった。すぐにポンピングしてくれ。それとともかく搬送が必要だ。救急にはもう連絡した」

「はい!」

村上は孝志の指示を待っていたかのように、いや、そうでなくてもこの状況に対していてもたまらず、持っていた輸血をすぐさまそれまで点滴していた輸液ボトルと交換した。

ポンピングとはその名のごとく注射器をポンプとして使うことをいう。輸液をするための患者につなげた静脈点滴ルートの途中に注射器(シリンジポンプ)をつけ、三方活栓というところでボトルからの溶液を吸い込み、今度はその活栓をひねり患者側にシリンジの液体を思いっきり押す、といった行為を繰り返すことをいう。点滴台にぶら下げたボトルから重力に任せてゆっくりと流れる通常の輸液や輸血とは異なり、ポンピングを行えばかなりのスピードで患者に投与できる。手術室では時に大出血に対して行われる光景だ。“昨日は参ったよ、いきなりの出血でポンピングをし通しだった”という逸話は一種の武勇伝として、大手術の後に医師の間で交わされる話題でもあった。孝志や村上といった産科医もお産の際の大量出血は経験することがないとは言えないものだったが、ポンピングが必要な症例は実体験としてはなかった。

「そのまま入れるんですね」

助産師の山本は修羅場になりつつある状況でもありながら、検査室から持ってきた輸血を躊躇せず真由美に投与している村上とそれを許容している孝志に対して、純粋な驚きを込めた言葉をつぶやいた。

血液型、輸血、交差反応といった語句は、医学生のみならず、看護師、助産師、臨床検査技士など医療職を目指す大半の学生であれば当たり前のように学習する事柄だった。通常の輸血であれば適合血を使用する。つまり、輸血が必要な患者と投与する輸血の血液型を確認し、さらに交差試験という検査でお互いの血液の間で反応が起きないことを確認した場合にのみ、適合血とされ輸血することができる。この手順は輸血の副作用を防ぐために行われる。しかし、このように危機的出血といわれる状況では、血液型があえばそのまま試験をせずに投与することもある。交差試験の時間を省略するためである。ましてや命の危険が迫っている場合には、異型輸血と称するO型の赤血球濃厚液を投与することがある。血液型を合わせる手間が省かれるだけでなく、血液型が不明の患者に対しても緊急事態として対応できる。

「そうです。こういうときはOプラスをノンクロスで入れます」

村上は、ポンピングをしながら少し冷静さを取り戻して、山本に説明した。

2ヶ月前に大学病院が主催した定期的な研究会で産科危機的出血の特別講演が開催された。産科危機的出血のガイドライン作成に関わった東京から来た講師の話は印象的でだった。日頃大学院で基礎研究ばかりしていて、もっぱら収入は産直のアルバイトでまかなっている村上には、日々の研究とは全く分野が異なる話だったが臨床現場の対応の変化に感心したものだった。腫瘍の研究者を目指している村上としては産科系の話題は門外漢だったが、産婦人科医として分娩に立ち会うことは当たり前なので、正直いって「勉強になった」というしかなかった。あいにく参加者は大学病院関係者やその近隣の開業の医師が多く、目の前にいる三坂など離れた地域にいる医師は案内状をみるだけで参加する事ができないのが常だった。ましてやこの地域で働く助産師の山本には経験も知識も十分ではなかった。

「危機的出血ガイドラインだよ。でもこれだけでは足りない。ともかく入れながら早く搬送したい」

孝志には、この状況を打破するだけの対策を講じることは、この病院ではすでに限界だと感じていた。高次病院への搬送しかない。ともかく救急車の到着を待ち望んでいた。ふと、目を下に向けると膿盆には再び血液が充満していたが、凝固する気配は認めなかった。

日本海を望むこの地域から孝志や村上の母校である大学病院は南に救急車で1時間程度要する。また、日本赤十字社系の病院には西に同じく1時間程度かかる。どちらでもいいがともかく早く運ばないと、と孝志は焦った。ポンピングを続けているため、かろうじて血圧は上昇し、心拍数も低下しているように思われたが、産道からの出血は続いていた。

「先生、ヘモグロビンが6 g/dl、血小板は8万だそうです。凝固系の検査はまだ30分ぐらいかかるとのことです。それとFFPはまだ溶かしはじめでまだ十分に融けていないようです」

村上が輸血を取りに走っていったときに採血した結果が一部判明した。しかし、期待とは裏腹にすべての情報が入るには時間が必要だった。

孝志はショート寸前の神経回路を駆使して状況を分析した。

ヘモグロビンが6 g/dlというのは大量出血であればある程度予想された貧血の値である。身体の中の半分の血液を失ったことを意味する。これ以上進行すれば命が危ない。しかし、血小板は8万もある。なぜ血が止まらないんだ。大量出血によるDIC(播種性血管内凝固)なら、もっと血小板は低くてもいいはずだ。

孝志は疑問を抱きつつも、今ある状況を必死に脱すべく、輸血をポンピングしている村上の隣で、別の静脈ルートからアルブミン製剤をポンピングし始めた。

「村上、どうおもう。血小板はまだ大丈夫だけど」

「うーん、ちょっとわかりませんが、出てくる血液の状態を見ると固まらない印象なので、DICはDICでいいのだと思います」

「そうだな、ともかくFFPも入れたいし、搬送もしたい」

 

遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきた。ほどなく救急隊がストレッチャーをもって分娩室に入ってきた。

「32歳、経産婦。経膣分娩後の出血性ショックです。大学病院への受入はすでに連絡ずみ。受け入れ先は産婦人科の渡部ドクター。ルートは2本で現在輸血中」

救急隊に手短に真由実の情報を伝えると、真由美を急いでストレッチャーに移した。真由美はずっと目を閉じたままだった。

孝志は真由美の夫を手招くようにしながら、一緒に救急車に乗り込んだ。本当は村上にも同乗して欲しかったが、この街の産科医を不在にする事はできない。助産師の山本が同乗することになった。検査室から解凍が終わったFFPを検査技師が抱えて走ってきた。

「AB型FFPは2単位しかありませんでした。それとA型も2単位です。あとは 取り寄せになるので1時間以上かかります」

申し訳なさそうに説明する技師に対して、そうだろうなとしかいいようがなかった。O型のRCCの備蓄が漸くできるようなっただけでも、以前よりもまだましな状況でだった。

「出発します」

救急隊のコールによって、救急車はサイレンを鳴らしながら動き出した。

「17時12分、現地出発」

児が生まれたのは15時40分だったので、まだ1時間30分しか経過していないが、孝志にはすでに半日以上の時間が経過したように感じた。

救急車は山と田んぼに囲まれた道路を南にかけていった。

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