女性医師問題でゆれる真夏の夜の所感

教授室の窓から

東京医科大学における入学試験において女子学生入学数の制限目的として点数操作が行われたという報道がなされて以来、多くの方がいろんな意見を発信している。
同時に、この問題が単なる性差別だけでなく、女性医師の働き方のみならず、医師の勤務実態という観点にまで波及してきた。

“定額使い放題”という的を得た言葉が現れ、“パンドラの箱があいた”のではないだろうか。

平成2年に医師となった私は、昭和の時代に医学生を過ごした男性医師であり、ある意味、現状の医療状況を支えながら維持してきた若手だった一人ではあるが、やはりいろんな方々が声を挙げていることに対して賛同する部分が多い。
現役の医学部教授として、そして、産婦人科医として、産科医が減少している中で、どうにかして産科学・周産期医学を再興・発展させたいという想いを抱きながら過ごす中で、パンドラの箱が開いたことに対して想いを綴る。

女子学生が少ない

私が医学部に入学したのは昭和59年。母校の山口大学医学部医学進学課程(当時の名称は確かそうだったような気がする)は、一学年120名の定員だった。
入学して最初に感じたのは「女子学生が少ない」ということだった。
特に制限をかけたわけではなく、女性が医師を目指すという風潮があまりなかったことに起因するのだろう。実際、120人中、20人ぐらいだった。

世はバブル。トレンディードラマは、裕福な大学生の恋愛を描く中、余りにも少ない女子学生の数に唖然としたのは否定できない。男余りである(笑)。

呑み会で同級生の女子学生と話していても、先輩や後輩の女性と話していても、医学生が将来診療科を選択する際に問題となる話は常に付きまとう。男子学生は自分のなりたいもの、あるいは、開業医の子息であれば親の診療科を挙げていたが、女子は、“女性が少ない診療科は選択肢にない”と語っていた。

実際、外科系ではほとんどの診療科に女性医師はいなかった。手術を行う科として女性医師がいたのは皮膚科や眼科、そうでなければ内科系と小児科の医局には少数の女性が在籍していた。そのため、これからの将来を描く多くの女子学生の選択肢が狭められていたのが現状だった。
診療科を選択する上で、最近、医師の西川史子さんが発した、皮膚科や眼科の医師ばかりが増えてしまうという発言もあながち否定できない部分もあるだろう。今から約三十年前はもっと厳しい状況だった。
当然ではあるが、産婦人科にも先輩の女性医師はいたが、少数派どころか、大学医局の関連病院を含めても片手で数えることができる程度にしか女性はいなかった。

女性が勤務することに慣れていない構造では、それを受け入れ仕組みは不透明だった。

男まさりが必要?

学生時代、体育会系の部活に打ち込み、大学祭に打ち込み、授業への出席がかんばしくない状態であった私に対して、ある女子学生から投げかけられた言葉を最近の報道を機に思い出した。

「私たち女性は、男勝りにならないといけないから、あなたたちのように遊んでいられないのよ」

飲み会の企画をして持ちかけたときに投げかけられた言葉だった。

今にして思うと、女性が医師として、男社会の典型的な組織である医療界でがんばっていくには、「男勝り」を必要とされていたのだろう。

男性医師と同じように働き、男性医師と同じように実績をつみ、男性医師と同じように昇進する、そのためには、女性らしく生きていく余地はなかった。
実際、120名中の20名程度しかいないマイノリティーとして過ごす中、先輩をみてもほとんど女性が働いていない実態をみれば彼女の言葉がすべてを表していた。
他の女子と話していても、卒業が差し迫り、入局する診療科を選択する段になると、外科系志望だった子も勤務実態が酷な診療科を諦めることが多かった。

確かに、当時、医学生の私からみた光景としても、少数の外科系で奮闘している女性の多くは独身だったと記憶しているし、その方々は、男性医師と十分に渡り歩くどころか、能力がまさっていたからこそその地位にいたのではないかと思う。

男勝りの先生だな、と輪層実習ではしばしば感じたものだった。

女医はマイノリティーだった

当時は、現在のような臨床研修制度もないため、卒業後はいきなり専門診療科に入局していたが、時代がちょうど変わり始めた矢先だったのだろう、産婦人科には一学年上と自分の学年に3割程度の女性医師がいた。
当然ではあるが勤務に性差はない。点滴当番、検査当番、問診当番、手術の助手、そして、当直も均等で、アルバイトの割り振りも均等だった。ちょうど周産期母子医療センターが開設されたばかりだったので、月に15回の大学当直、7−8回程度のアルバイト当直をこなし、家にはふらふらで帰宅していたが、女性医師も同様で、あの激務の中で「同志」としての絆が作られたものだった。

今でこそ、産婦人科入局者の多くは女性だが、当時は女性も少ない中で、「男性と同様の扱い」であることが当然であったし、そうでない選択肢はなかった。

「この人たちは、将来、結婚、妊娠、出産をしたらどうなるんだろう」という想いは人ごとだったような気がする。

状況が少しずつ変化してきたのは、その後も徐々に増えてきた女性医師が、結婚・妊娠・出産というプロセスを経るようになってきてからだろう。しかし当時は大変だった。

「妊娠は入局後〇年までは困る」「〇〇病院へ派遣中はできれば妊娠しないでほしい」「うちに派遣する医師は男性にして欲しい」という言葉が、正式に記録されることはなかったが、無言の圧力があったのは否定できないだろう。大学院に進学した後輩は4年間を経て博士号をとるまでは、妊娠の避けていた。

ただ、キャリア形成のために女性が妊娠・出産を躊躇するという社会構造はどこにでもあることであり、それば現在の出産年齢の高齢化に一因となっている。

では、女性医師が妊娠・出産するのはどういうふうに困る現状だったのだろうか。
今でもそうだろうが、女性が妊娠・出産・子育て、となれば当然、その期間の勤務は軽減されたり、休職扱いとなる。その埋め合わせは、男性医師と独身ないし子持ちでない女性医師が担うことになる。
平日の夜、土日祝日にお産が無いわけではない。必然的に当直回数が増え、休日勤務の回数が増える。
すべてが「しわ寄せ」という嫌みな言葉で表現されるようになる。

また、産休という制度による余波もあった。
産休はとても大切な制度だが、産休の間の仕事の補填、という観点ではこの制度ではなにも役にはたたない。産休は勤務者の立場を保証してくれる。そのため、常勤医は復帰すればまた常勤医となれる。
しかし、公立病院などでは、医師の定員が決まっているため、女性医師が産休をとることによって、かわりの医師をそこに派遣したとしても、その派遣医師は「非常勤」となり、給与面では格段の差が出てくる。家賃手当、交通費、賞与などもない。
そうなると、「〇〇医師が産休だから、非常勤で条件の悪いあそこに行ってね」という人事がまかり通ることはない。

女医がマイノリティーであれば、それに対応する仕組みがない。

今でこそ語られることかもしれないが、女性医師の妊娠・出産、産休とその補填によるしわ寄せ、で双方が決して思わしくない感情的な状況になったケースは少なくないだろう。その結果、至る結末は残念なもので、結果として妊娠・出産を考えるようなった女性医師は、退職するのである。退職すれば常勤医枠が一つ空くわけで、前述の問題は生じないが、一人の医師がいなくなることになる。

男性医師は幸せか

女性医師問題が取りざたされる中で、男性医師の本音はどこにあるのだろうか。

いわゆる男社会が当たり前だった時期を過ごした私の場合、職業人として働いていた妻を妊娠・出産と共に退職に追い込んでしまったという自責の念は今でも拭えない。
朝、病院に出かけていったはいいが、いつ帰るかわからない父親、土日にアルバイトに出かけて不在の父親、家族で買い物に出かけている途中でポケベルが鳴って(当時は)病院に向かう父親。そんな父親に対して、母親が勤務を続けることはできない。
多くの医師の妻が職業人をやめて主婦でいるのは、経済的に共働きが不要なのではなく、働けないのである。彼女達の多くが本当にそれに満足しているかは疑問である。

医師である夫のために職業人をやめ、男性医師はそのおかげで家庭を犠牲にしながら働く。笑ってしまうぐらいに素晴らしき奉仕の精神構造である。

一方、女性医師は、医師であっても主婦となることも多く、あるいは、病院やクリニックの外来診療のみのパート勤務で済ませる人も沢山いる。本人達が本当にそれを望んでいるかはわからないが、キャリアアップをしたいのに諦めた人たちが大半なんだろうと思う。

男性医師の中にも、パートナーの病気等によって、子育てへの対応を余儀なくされ、激務を避けて一線を引く医師がいた。

大学病院での勤務とは

医師という職業でいるかぎり、経済的に裕福である、という幻想が常につきまとう。確かに、高級外車を所有し、広い敷地の邸宅や高級マンションに住んでいる人が多いというのも事実だと思う。しかしその多くは開業し診療所や病院を営み努力している経営者である。

実際、病院で勤務している医師をみると、給料はどんな診療科でも定額制だし、時短勤務もなく、時間外手当や当直料は笑うしかないぐらいに低額である。ほとんど課金のない、定額使いホーダイである。
6年間の医学部での勉強、医師国家試験、臨床研修制度を経て、24時間365日働いていればそれなりの収入があるのが当たり前だが、実際には、「高学歴」の職業として分類される他の職業に比べると収入は低い。

今回、問題が噴出した根底には、大学病院を支えるとても不思議な構造があるからではないだろうか。

大学医学部の教授です、というと間違いなく「とてつもなく権威のある裕福なちょっと傲慢な人」というレッテルを貼られる。いやいやちょっと待ってよ、と言いたい。
大学の教員は、どんな学部でも給与体系は同じである。つまり大学病院の医師は医師としてではなく教員としての給与を貰っている。当然だが、准教授も講師も助教もそうである。附属病院で朝から夜中まで働き、当直をこなし、休日に出勤し、一般病院で医師としてもらう給与のおよそ2/3から半額の給与で働いている。しかもそれは助教以上の教員であり、後期研修医や、医員もしくはシニアレジデントという立場の医師の場合、給与はもっと低い。医学生を教育し、医師を育て、高度な医療を開発し、医学研究を行う役割を担うという企業で言えば本社ではあるが、給与面では不思議なことに派遣先と比べると「大学病院が最も低賃金」である。

それでも私のように大学にこだわる医師は少なくない。高度な医療の実践、研究、教育における醍醐味を味わいその魅力から離れることのできない医師が在籍し続けるのが大学である。ただ、そのためには、アルバイトが必要で、他病院での当直に行き、夜間や休日をつぶしている医師が大半である。

こんな状況の中で、果たして女性医師が自分のライフプランを描けることができるだろうか。正直到底無理なのではないだろうか。

女性医師の増加とパラダイムシフト

パンドラの箱、と称したのは、医師の勤務実態や給与、そして医療全体のシステムが抱えている慢性的な構造上の問題である。

緊急対応の多い、産婦人科を含む外科系、救急、集中治療、新生児医療という分野では慢性的な人手不足になりつつある。時間的な拘束もあるだろうが、収入面での不平等感もそこにはあるだろう。手術や分娩の数が増えれば病院の収入は増加する。しかし、その収益は他の分野での赤字の補填に使用されることも少なくないだろう。医師へのインセンティブを設定し始めた病院も多いだろうが不十分だろう。
産科に限れば、すでに地方都市や大都市近郊では医療崩壊に近いのが現状である。それでも使命感をもって支えている医師がいるために毎日のように呼びだされても続けている。人数という数合わせには、単なる使命感では新たな人材は得られない。給与面での構造改革は急務だろう。

時間的拘束も大きな問題である。患者さんからみれば、信頼関係のある医師に外来でも入院でも担当医として担って貰いたいところだろうが、チーム制を導入した役割分担は必要だろう。
個人的な経験として感心したのは、以前に勤務していた地方の総合病院と現在の状況との差である。夜間や休日の緊急帝王切開などの対応があった場合、以前の病院では主治医に連絡が入り、主治医が駆けつけることが多かった。分娩に関しても、さすがに正期産の低リスクの分娩は当直医の対応だったが、ハイリスクの分娩は主治医を呼び出すのが常だった。しかし今の病院では当直医が複数いるということもあるのだろうが、当直医に任せて対応を行っている。
患者さんにしては少し寂しい面もあるだろうが、主治医制による激務によって現場を立ち去った医師は少なくない。
今後、如何にチーム制を医療に導入するか、患者情報をチームで共有し、医師一人一人の考え方で対応するのではなく、チームとして共通方針で対応するための仕組みを作ることが急務であろう。

シフト制も考慮すべき事だろう。同じ病院で働く職業人として、看護師や助産師は大半が女性であるが、女性看護師問題という言葉は聞いたことがない。
女性がマジョリティーである長い歴史の中で、女性が勤務を続けることができるためのシステムが作り上げられてきたのだろう。
これから女性医師が増える中で、男性医師や独身女性医師がその穴を補填するという考え方を転換し、男性医師や独身女性医師も幸せに勤務を続けることができるような仕組みを導入することも必要だろうし、実際、都内の大病院ではその仕組みによって円滑に運営ができているときく。

抵抗勢力にならないために

今後、パンドラの箱が開いたことで(開いたはずだが)、パラダイムシフトを期待する中で、自戒の念を込めて最後に記す。

これまで苦労して夜中も休日も惜しまずに働いてきた医師、男勝りに子育てをしてきた女性医師は、最もその苦労を知る人物ではある。より理解者にもなりうるが、最大の抵抗勢力にもなる。

「自分はそうしてきたんだから」は通じない。

これを肝に銘じなくては何もかわらない。

コメント

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