碧き波の彼方に 第一話

物語

瀬戸内海を望む地方都市で慎ましく暮らす玲奈は初めての妊娠に戸惑いとときめきを感じながら過ごしていた。彼女の身にふりかかる運命とは。そしてベテランの産婦人科医鹿取祐輔は玲奈に対して何ができるのか。“産まれる”というあたりまえの出来事をとりまくそれぞれの運命を語る。

碧き波の彼方に

第一話

夕闇に包まれた道路を救急車がサイレンを鳴らしながら駆け抜けていた。仕事帰りの自家用車に混じって、幹線道路である国道を走るトラックも多い。サイレンの音に気づいて車たちは慌てるように道路のそばに遠慮するように停車して救急車をやり過ごしている。サイレンの音に気づいてバックミラーに目をやれば、雨上がりの道路で赤色灯の光が路面に反射していつもにもましてキラキラと光って見えただろう。救急車が側道に停止した車を追い抜かすたびに、運転席からドライバー達は何が起きているのだろうかという視線を投げかけた。

救急車が交差点に近づくたびに救急隊員が救急車両の進入をアナウンスし、そのたびに速度を緩める。救急車といえどももし衝突事故を起こしてしまえば、なんのための救急搬送なのか、元も子もない。

「早くして欲しい」

救急車内では、鹿取祐輔が祈るような気持ちで、苦しそうに顔をしかめたままストレッチャーに横たわる玲奈を見つめていた。

「あとどれくらいですか」との祐輔の問いに、救命救急士は20分ぐらいでしょうか、と応えた。何度も自分でも走っている道なので窓の外の景色をみれば搬送先の病院まではおおよその目安はわかっているつもりではあるが、それでももっと早くについて欲しいとの祈りに近い願いを込めて尋ねただけだった。

 

鹿取産婦人科医院がある街は、瀬戸内海に面した港町で、古くから交易で栄えたその町は、自動車メーカーやその下請けの工場とその関連産業で支えられている。鹿取家は幕末期から明治初期に港に出入りする役人や商売人を相手にした料亭を営んでいたが、父の希祐が長崎医学専門学校に進学し産婦人科医院を開業した。料亭を経営していた祖父が子供達の一人ぐらいは医者にしたいと願っていたとのことで5人兄弟の三男だった希祐がその願いを叶えたのだった。

祐輔の母の実家は江戸時代には代々家老を務めた由緒ある家柄で、明治維新後は県庁に勤める役人の一家だった。商売人ではない血筋を願った祖父の肝いりで希祐は母と結婚したとのことだった。父が開業したときには祐輔はまだ乳飲み子だったが、毎日毎日、正月も盆もなくお産を扱っている父とは外出はおろか夕食さえゆっくりと一緒にする機会もなく、家庭内母子家庭のような状態で成長した。

産婦人科医の子供ということで小学生の時には「エッチ大魔王」というあだ名でからかわれたこともあったし、息子に厳格な父に反発し野球に打ち込んだ時期もあったが、地元の公立の進学校に入学しいつのまにか父と同じように医師の道をめざした。父とは異なり戦後に新設された地元の地方国立大の医学部に進学し、大学時代はヨット部で過ごした。講義はほとんど出ないのが当たり前のような時代で、来る日も来る日も海に出ていた。瀬戸の夕凪というぐらい瀬戸内海は穏やかな海のため小さなディンギーでセーリングを学ぶには適していた。希祐は一度も産婦人科医になって欲しいとは言わなかったが卒業すると祐輔は産婦人科の医局に入局したのだった。

 

その父もすでに75歳を超えさすがに体力的にも知力的にも衰えていた。近くの県立病院に周産期母子医療センターができたこと、他にもバブル期に産婦人科医院ではなくレディースクリニックと称した瀟洒な開業医ができたこともあり、鹿取医院が扱う分娩数は月に20件程度に減ってはいたが、それでも日々穴を明けるわけにはいけない。父のことを気遣い祐輔もすでに10年以上に渡った毎週一回の実家での産直と外来をこなしていた。玲奈が妊婦として鹿取医院に通院するようになったとき、祐輔は丁度48歳となっており長き大学医局での生活に終止符を打つべきか思案していた時期ではあった。

 

「よろしくお願いします」

妊娠反応が陽性のため玲奈が鹿取医院を訪れたのは昨年のクリスマスムードに街が染まっていく時期だった。いつものように生理が来ないなと思った玲奈は職場の昼休みに同じショッピングセンターにあるドラッグストで妊娠検査薬を購入した。夏に結婚したばかりではあったができれば早く子供が欲しいと思っていたので特に避妊はしていなかった。もしかして、との期待を込めてトイレに駆け込んで検査をするとくっきりと陽性反応が出た。「よし!」と静かにガッツポーズをして午後の勤務にいそしんだ。

玲奈の仕事は街の郊外にできたショッピングセンターのブランドショップの販売員だった。ブランドショップといってもいわゆるグッチやプラダと言った高級ブランドではなく、高校生から二十歳ぐらいの子をターゲットにしたショップだった。ティーンをターゲットにしたファッション雑誌では茶髪にカラコン、つけまをしたモデルがそのブランドの服を着こなしているため、玲奈もある程度雰囲気を合わせるようにしていた。ただ、さすがに24歳になった玲奈にはそろそろもう少し年長を狙ったブランドへ移った方がいいかな、感じるころだった。多くのアパレルメーカーは、年代や好みによって複数のブランドを運営しているため、そのような「部署替え」は販売員の年齢と共に当たり前ではあった。

 

診察室に入ってきた玲奈をひとめみて祐輔は少し驚いた。玲奈が特徴的だったわけではない。24歳らしい姿だった。カラーコンタクトとつけまつげの瞳はどこかその視点が定まらないように思えたし、エアリーベージュの髪色も地方都市とはいっても珍しくはなかった。祐輔の偏見ではあるが、この街の若い女の子はどこか田舎くさいかヤンキーあがりのような雰囲気に大別される中で、玲奈はすこしあか抜けた雰囲気を持っていた。

手にした問診票を眺めながら確認するように祐輔は尋ねた。

「妊娠検査で陽性と言うことですが、最後の生理はいつでしたか」

診察室のイスにちょこんとすわった玲奈は少し恥じらいながら応えた。

「10月の3日からだったと思います」

「妊娠反応の検査が陽性になったのが昨日、つまり11月9日ですね」

「はい」

「いま、むかむかしますか」

「・・・・」

「つまり吐き気があるとか、なにかご飯のにおいとかをかぐと気持ちが悪いとか」

「うーん、そういえば少しあるかも」

「吐いたりはしないんですね」

玲奈はこくんとうなずいた。

「出血はありませんか」

「いえ、ありません」

祐輔はいつもの手順で妊娠の確認のための情報を聞き出した。祐輔はなるべく目を合わせないように問診をした。医師が患者を診察するときに限らず人と話をするときは目をみて話すものだと、小さい時から誰彼となく教えられてきた。ただし、産婦人科の診察では特に初診時は目を合わせないようにして診察をすすめ、患者がリラックスしてきたら目を見つめるようにと医局の先輩から教えられてきた。すべての患者が望ましい状態として受診しているわけではなく、また患者自身に産婦人科特有の恥じらいがあることをおもんばかっての作法だった。

「わかりました、そしたらちゃんと子宮の中に妊娠しているのか確認したいので診察をしますね」

そういうと祐輔は手で内診台の方をしめした。診察の介助に立ち会っている助産師の高本千佐登が少し緊張した様子の玲奈に優しく声をかけて誘導した。

「内診になりますね。おしもから診察をするので、スカートの場合は下着をとってそちらの診察台に座ってください。用意ができたら声をかけてもらえますか。診察台が動きますよ」

あー、これが友達のあっちゃんが言ってたやつか、と玲奈は思い出すように納得した。あっちゃんは玲奈の高校時代の同級生で昨年子供を出産している。あっちゃんは妊娠したときから不安もあるのか、事ある毎に玲奈に診察の様子を話していた。24歳の女性がはじめて産婦人科を受診するのは珍しいことではないかも知れないが、子宮がん検診の勧奨や性交渉年齢の低年齢化によってなんらかの事情で受診経験のある女性が多かったが、玲奈はがん検診も受けていないため初めてのことだった。

「動きますよ」

足下が上がると診察台が静かに回転した。

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