瀬戸内海を望む地方都市で慎ましく暮らす玲奈は初めての妊娠に戸惑いとときめきを感じながら過ごしていた。そんな中、玲奈の憧れである優奈が無痛分娩中に死亡し、大きな余波が訪れることとなる。
碧き波の彼方に
第十三話
「ただいま」
祐輔はいつもと変わりなく、家の前に車を停めると助手席においた細長い紙袋を手にして玄関に向かった。
吐く息は琥珀色の外灯の光にほのかにしらきながら消え去り、見上げた空にはオリオン座が輝いていた。エンジンを停めた車のボンネットの下からは、動燃機関が冷めていく際に生じる熱されて膨張された金属が縮むためのきしむような音が聞こえていた。
いつものように三段の玄関口の階段を上がると、インターホンを押した。
「はーい」
由起子のちょっと驚いたような声が聞こえ、しばらくするとドアが開いた。
「あら、どうしたの? いつもは鍵をあけるのに。鍵でもなくしたの」
不思議そうにたずねる由希子に、祐輔は細長い紙袋を渡した。
「メリークリスマス」
ちょっと照れくさそうに由起子の顔をみつめながら、祐輔は紙袋を自慢げに由起子の目の前に掲げた。
「シャンパンを買ってきたよ。たまにはお祝いしないとね」
「あら、珍しいわね」
驚くような仕草をみせながら、由希子は祐輔が掲げた右手で掲げた紙袋を受け取った。
今日は12月24日。クリスマスイブだ。息子の祐司が小さい頃はクリスマスイブは一大イベントだった。由起子のこさえたご馳走がテーブルに並び、祐司がサンタにプレゼントを願いながら寝付くのを二人で待ち望んだものだった。
祐司がぐっすり眠ったのを確認して、リビングのちょうど祐輔の背丈ほどもあるクリスマスツリーの下にプレゼントを置くのを確認して寝るのが、祐輔達の仕事のようなものだった。
そんな祐司もすでに中学生となり、さすがにサンタクロースがトナカイに引かれたソリでやってくるとは信じなくなっていた。
「祐司は?」
祐輔はコートを脱ぎながら尋ねた。
「もう二階にいるわよ。今日は塾が早く終わったらしく、部屋で勉強でもしてるんだと思うわ」
祐輔は、そっかと頷きながら、左手の紙袋を持ち上げた。
「さすがに喜ばないかな」
そういいんながら差し出した紙袋を由起子が受け取ろうとしたとき、二階から祐司の声がした。
「父親がわざわざXmasに買ってきたケーキを喜ばなかったら、できのいい息子としては不合格だから心配しないでいいよ」
あわてて階段を降りてくると、祐司はそういいながらあわてて階段を下りてくると紙袋のケーキをそっと受け取った。
「お、久々のラ・ぺのケーキだ!」
嬉しそうに紙袋の中身を確かめる祐司をみつめながら、祐輔も由希子も目を合わせて笑った。
すっかり背も伸びてきたが、さすがにまだまだ中学三年生だな、と箱の中のブッシュドノエルを嬉しそうにみつめる祐司の笑顔に二人とも癒やされた。
「かんぱーい」
高々と掲げられたシャンパングラスとコーラの入ったグラスがかちんと音を立てた。
マグロのカクテルにカプレーゼ、そして由起子自慢のローストビーフとお手製のガーリックバターがたっぷり塗られたバケット、ミネストローネが食卓を囲んだ。
祐輔の体を気づかってというよりか、由希子自身が好きなのかもしれないが、いつもは和食中心の鹿取家の食卓も、なにか記念日の時には洋食が中心となっていた。
テーブルに灯されたキャンドルがシャンパングラスを通してみると一層輝いていた。
3人で囲む食事とはいえ、育ち盛りの祐司が5割、祐輔が3割、そして由希子が2割、そんな配分の量でテーブルの上の料理は見事に消費されていった。由希子の食事を美味しそうに食べる祐司を二人でほほえましく見つめていた。
「うえー、お腹いっぱい」
祐司はお腹をなでながら天井を見上げてため息をついた。
「おいおい、そんな食べたらケーキが食べられないだろう」
祐輔は心配していったが、祐司は人差し指を横に振りながらこたえた。
「大丈夫、大丈夫。お父さん達がのんびりワインを飲み終わる頃にはまたお腹がすくって」
そういいながら祐司は食卓をはなれリビングのソファーで、恒例のXmas特番のテレビをみはじめた。
「早いわね−。もう今年も終わりね」
そういいながらシャンパンのあとに注がれた赤ワインを口にしながら、じょうきした顔で由希子は祐輔を見つめた。
「そうだな。はやかったなあ。なんだか、だんだん早くなるような気がするな」
そういいながら祐輔はグラスの赤ワインを口にし、飲み残したワインをしばし見つめた。
「どうしたの。やっぱりあのことが尾を引いてるの」
日頃、仕事にことに対して口を挟まない由希子だったが、二人の間にともっているキャンドルの炎のむこうで揺らめく祐輔を見つめながらつぶやいた。
「あ−、そうだな。なんだかな、長い間、人の生死に接してきたような気がするんだけど、ちょっとセンチメンタルになってしまったよ」
そういいながら祐輔は言葉をついだ。
「なにが良かったのか、悪かったのかは別にして。世界中のほとんどの家は、今日はメリークリスマスっていいんながら夜を過ごしているだろうけどね。あの、向井優奈さんの家はいつまでもお母さんの料理が食卓並ぶことはないんだなって思うと、普通がどれだけしあわせなことなんだろうかって」
そういうと祐輔は照れくさそうにワイングラスを口にした。後ろのカーテンを少しあけるとバルコニーの上に月が輝いていた。
冬の透き通るような空気で月は輪郭をくっきりとあらわしていた。冷え切った空気の中で青白い光が、鹿取家とその周辺の住宅街を閑かに包み込んでいた。
「あなたよりは私の方が、そんな普通がもっと好きかもよ。病院で予想外のことにあくせくしなくちゃ行けない立場もあるでしょうけど、わたしはいつものようにXmasが来る、そんな暮らしが好きだわ」
由希子も窓越しの月をみつめながらつぶやいた。
世界中のどれだけの人が今夜という365日に1回のひとときをどんな思いですごしているんだろう、そんな想いにひたって再び祐輔はワインを口にした。
「あはは、ばっかじゃないの」
いつもとかわらない教養とはほど遠い番組かもしれないものに興じる祐司の声がリビングに響きわたった。
「ただいまー」
社宅のドアを開けようとした翔太は驚いた。ドアの鍵を開けてドアノブをひねったとたんにかってにドアが押された。
「じゃーん」
目の前に、サンタクロースの衣装をまとった玲奈が現れた。
「ど、どうしたん」
思わず翔太は驚いた。と同時に満面の笑顔をたたえた玲奈をみつめて思った。
「か、かわいい」
そう思った瞬間、翔太は玲奈を抱きしめった。
「ちょっと、ちょっと翔太、なに!」
「だって」
といいながら翔太はしばらく玲奈をぎゅっと離さなかった。
「翔太、痛いよ!そんなにしたら」
玲奈の声にはっとしながら翔太は力をゆるめた。
2DKの社宅は、戸口で靴を脱いでわずか10cmの戸上がりから廊下を進むとリビングダイニングだった。
食卓には、大皿にフライドチキン、ミニトマトがトッピングされたサラダとジャーマンポテト、そしてロールパンが並んでいた。
「うわー、これ、すっげー、どうしたの」
翔太は驚いて声を上げた。
「だって、クリスマスイブじゃん。翔太の好きな唐揚げにしたの」
「え、でも玲奈、つわりは? 今朝まで余り食良くないって言ってのに」
照れくさそうに翔太を上目遣いで見つめながら玲奈はこたえた。
「ごめんね、翔太。実は先週から大分良くなって。まだ本調子じゃないけど、でも、もうそろそろ大丈夫そうだなって感じてたの」
「でも、今朝なんか、すっごいだるそうで起きなかったじゃないか。心配したんだぞ」
「ほらクリスマスイブだからちょっと驚かそうかっておもって、、、。怒った?」
満面の笑みをたたえながら心配そうにみつめる玲奈をみながら翔太は少し間をおいてこたえた。
「怒った、怒ったよ。凄い怒った。だって心配したもん。だからぜーんぶたべてやる」
そういいながらもう一度玲奈をぎゅっと抱きしめた。
「痛い、痛いよ、翔太。ほらお腹の赤ちゃんがびっくりするよ」
そういいながら玲奈も翔太を思いっきり抱きしめた。
しばらく抱擁をつづけていた二人だったが、翔太が思い立ったように叫んだ。
「玲奈、そうだ、そうそう。ちょっとおいで」
玲奈の手を引いて、思いっきり窓をあけた。
「うわ」
そういうと二人とも言葉を失って空を見つめた。
月が輝いていた。月明かりの下には翔太の努める工場の明かりがともっていた。月を見つめる二人の吐く息は社宅の窓からかすかに空へと昇っていった。
「サンタさん、なんかくれないかな」
そうつぶやいた翔太のおでこを玲奈は指でつついた。
「ばっか、ここにもう素敵な贈り物があるじゃない」
そういってその指を自分のお腹にさした。
サンタがみていたら、どうしてこんな寒い夜に窓を開けているのだろうと、ふしぎにおもったかもしれない。サンタは窓からは入らない。でも二人が見つめる夜空にはトナカイとサンタクロースが駆け抜けていたに違いない。
しばらく見つめ合った二人は窓をしめてカーテンを閉じた。二人で玲奈自慢の料理をたらふく食べる光景がサンタにはみえていたのかもしれない。
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