碧き波の彼方に 第十話

物語

瀬戸内海を望む地方都市で慎ましく暮らす玲奈は初めての妊娠に戸惑いとときめきを感じながら過ごしていた。そんな中、玲奈の憧れである優奈が無痛分娩中に死亡し、大きな余波が訪れることとなる。

碧き波の彼方に

第十話

「おはよう」

眠たげな目をこすりながら、鹿取祐輔は一階の診察室に姿をあらわした。

「先生、眠れましたか」と、いつものように助産師の高本に声をかけられた。

「あー、そうだね。幸いお産もなくてよかったよ」

「昨日は遅かったんでしょう?」

「うん、研究会に顔を出してから来たから22時過ぎだったと思うよ」

一週間ぶりの鹿取クリニックでの勤務だった。祐輔は毎週、産婦人科では産直と呼ばれる当直をこなして翌日外来をするのが常だった。父が高齢になったことや同じ地域に周産期センターがあること、水田レディースクリニックがあるため、それほどお産は多くなく、夜起こされることは数回に一度程度だった。

「あれから、こっちは色々大変だったんじゃないの? 県立病院の小林先生にもきいたんだけど、マスコミ対応とか、慣れないことが多くて困ったって言っていたよ」

「そうですねぇ。小林先生は確かに大変だったでしょうね。しばらく会見の影像も流れていましたしね。ここに報道関係の方がいらっしゃることはなかったので私たちには相変わらずの日常ですけどね」

高本千佐登は向井優奈がこの世を去った日からの一週間を振り返るように穏やかな口調で返答した。

「はい、先生、コーヒー」

「あ、みずさん、おはよう」

そういうと、みずえがいつものように煎れてくれたコーヒーを口にした。

「相変わらずいい香りだなぁ、みずさんの煎れるのは。僕が日頃飲んでいるインスタントドリップのコーヒーは英語のcoffeeだけど、みずさんのは、漢字の珈琲ってイメージだよな」

「それって、私がもうろくしたからってことですかね。私だって多少は横文字が似合うところもあるんですよ」と、みずえは少しむくれた表情で応えた。

「いやいや、みずさんの歳になれば年季が入った方がさ、ほら、味があるでしょ。このカップだって長年使っていたから、いい珈琲の染みができて、余計にいい景色じゃない」

祐輔は笑いながら、萩焼のカップを持ち上げた。萩焼の特徴の一つに細かなひびが入ることが挙げられる。うつわにかけた釉薬が長年使っていると貫入というひびを生じ、そこに茶渋などが染みこむことで独特の風合いになる。一楽二萩三唐津と賞され、古くから陶器としては名をはせていたが、磁器よりも割れやすいというのが難点だった。

「おぼっちゃん、どうせ、私も七化けしてますよ。でもあまり口が悪いと冥土からお化けで出てきますからね」

「いやいや、困ったな。お化けになっても坊ちゃん扱いされたらたまったものじゃないからね」

二人の会話に和やかな雰囲気になってその後も談笑していると、受付の梅本が神妙に話しかけてきた。

「先生、よろしいですか。水田レディースクリニックの水田院長からお電話があって、変わって頂きたいと」

「水田先生? わかりました、こっちに回してください」

祐輔はそういうと診察室の卓上の受話器を手にした。

 

「お疲れ様でした」

高本の声で祐輔は背伸びをしながら診察室の椅子にもたれかかった。

「いやー、なんだか多かったね」

「そうですねぇ。なんだか少し妊娠初期の方が増えたような気がしますね」

「ところでさっきみた若い子、本橋玲奈さんって大丈夫かな?」

「大丈夫というのは?」

「いやね、先週胎嚢がみえなくて子宮外妊娠が心配だなって思ったら、ちゃんと子宮の中に胎嚢も見えたし、よかったねってエコー写真を渡したんだけど、なんだか先週心配していた割には表情がさえなくて。ほら、結婚もしているし、いわゆるできちゃったどうしようって感じではなかったんだけど」

「おそらく向井優奈さんの報道のことが影響しているんですよ」

「えっ、どういうふうに」

「向井優奈さんは地元のアイドルのようなものでしたからね。特にあの年代に子にはヒロインなんですよ。そのヒロインがお産で命を落とすとなると、他人とは言え複雑な心境なんだと思いますよ」

「ふーん、そうなのかあ」

祐輔は両手を頭の後ろに組んで、診察椅子の背もたれに体を委ねながら、曇りガラスの窓の外をみつめた」

予想以上に影響が大きいかも知れない、と頭の中でつぶやいた。

「さて、それにしても、さっきの更年期って言い張る人には困ったな」

祐輔は最期から2番目に診察した56歳の女性のことを思い起こした。最近いらいらするのは更年期のためだといって、ホルモン治療を受けたいという訴えで来院した女性だった。閉経は50歳ですでに6年が経過していて、精神症状と更年期障害との関連性はないと思われたが、ともかく自己診断を主張して投薬を希望して止まなかった。何度もホルモン治療は必要ないと説明しても引き下がらずに怒って帰ってしまった。

「どこでもあのような方はいますしね」

「まあね。そこで患者のいうように、ホルモン剤でも湿布でもなんでも処方すれば、名医になるのかもしれないけどな」と、深い溜め息をつきながら祐輔は時計を眺めた。時刻はちょうど17時を指していた。

「先生、いらっしゃいました」

事務処理のために居残りをしていた受付の梅本が診察室の祐輔に声をかけた。ふと時計をみるとちょうど18時だった。

診察を終えた祐輔はそのまま診察室でノートパソコンに向かっていた。後輩の武田がまとめた症例報告の論文の手直しをしているところだった。外来診療を終えた診察室はがらんとしていた。日中は患者が訪れ、看護師や助産師、看護助手や受付が慌ただしく動いているが、その役割がなくなったあとは、ひっそりとしていた。外来の診察室は患者と最初に接するための大切な場所であり、常に仕事をしている場所のはずだったが、患者も他の医療スタッフもいなくなると、決して落ち着きのあるスペースにはならなかった。どこか無機質な空間で生活臭もなく、また、あちらこちらに収納されている診察や治療に使うための医療器具も普段はスタッフがさっと出してくれるから使えるが、自分で取り出そうとするとどこにあるかもわからないことが多く、馴染みがあるようでありながら居心地は決して良くなかった。常に人が出入りする空間というのは、誰も出入りしないとわかっていても心から落ち着ける場所ではなかった。

父がいないのはわかっていたので院長室で時間を潰すという手もあったが、院長室はあくまで父の部屋であり、父の雰囲気に包まれていたので、そこで過ごすのも気が引けた。結局、外来の机でパソコンに向かうのが妥当だった。

外来の玄関ロビーに出向くと、水田透が紙袋を手に下げて待っていた。

「鹿取先生、すみません。急なお願いでお伺いして」

「いやいや、お久しぶりですね。ここではなんですからこちらへどうぞ」

恐縮した態度の水田を祐輔は院長室に案内した。

「どうですか、お疲れになったでしょう」

祐輔は、一週間前に起きた母体死亡のあと、水田にどのようなことが降りかかったか正直なところ定かではなかったが、一人の医師として自分が母体死亡に遭遇したときのことを想像していた。

「いや、いや、参りましたわ。正直しんどくて」

そういいながらもう冬になろうとしている季節なのに水田は額の汗を拭った。祐輔は水田の次の言葉を待っていたが沈黙が訪れた。落下傘開業で見ず知らずの土地にきた水田の言葉にはこの地域とは違う訛りが残っていた。地方の研究会では顔を合わせることはあったが、会釈をする程度で、水田が開業した当初に父の希祐に頼まれて小林達との間を取り持った頃からもう長い月日が経っていた。うつむいたままの水田を見つめると、その年月のためなのか、それとも、向井優奈の件による心労なのか、年齢の割には豊かな頭髪に白髪が目立っているのに気がついた。

「実は」と、長い沈黙の末、水田が話し始めた。

「母体死亡の案件で、色んなことがありました。まだこれからのことが多いと思うのですが、今週になって通っている妊婦さんが結構病院を変わりたいと言い出しました。スタッフの中にも急に退職を申し出る者も出始めまして、それで、今日、お願いに上がったわけです」

「そうですか」といいながらも、祐輔にはある程度予測されたことだった。

小林達、県立病院のスタッフが開いた記者会見では、向井優奈の死因についてはなんら医療事故をほのめかす言葉は語られなかった。当然ではあるがその後は水田透へのメディアの取材が入ると思われた。しかし、情報は記者会見の時点から拡散し勝手な解釈がついた。“またしても無痛分娩による母体死亡”“密着取材が語る惨状”“死因は不明という隠蔽工作か”などといった言葉が、テレビ、雑誌、ネットに氾濫した。原因究明のための病理解剖の結果には月単位の時間がかかるが世間はそんなに悠長には待ってくれなかった。

祐輔からみれば偏向報道ではないかと思われたが、世間の印象は悪い方向性に進んだ。ちょうど一ヶ月前に別の地域において無痛分娩による分娩中の死亡事例が複数例起きた医療機関についての報道がなされたばかりだった。その事例では、硬膜外カテーテルという無痛分娩の時に使用する麻酔薬を注入するためのカテーテルが、硬膜を穿通して脊髄くも膜下腔まで挿入され、そこに麻酔薬が注入されたために母体が呼吸停止となって死亡に至った訳で、今回の向井優奈の経過とは全く異なるが、無痛分娩という言葉でひとくくりにされたために印象は悪かった。

「本当は、お父様の希祐先生にご相談したかったのですが、丁度今日はご不在だったのと、先生が来られているということでしたので、伺った訳です」

祐輔は「そうですか」とうなずきながら、院長室の机を眺めた。そこに父の姿はなかったが、じっと椅子をしばらく眺めて口を開いた。

「わかりました、といいたいところですが、私にはどうしようもできません。ご存じのように父は高齢ですし、私も大学病院にいて一週間に1回の非常勤です。先生のクリニックの患者さんの流れをどうこうということもできません。外来の対応はできますが、お産についてはそんなに引き受けることもできないでしょう。ここは受け皿からすれば県立病院にお願いするのが妥当ではないでしょうか」

祐輔の返答を聞きて水田はうなずいた。

「やっぱりそうですよね。いやー、まずともかく先生に相談した上で覚悟を決めたかったというのが正直なところです」

「といいますと?」

「先生には私が開業したときにお世話になりましたし、今回の件でも小林先生にもそうですが、先生には何かとご迷惑をかけています。これからのことをどうしようかという具体的なことはわかりませんし、何も見通せませんが、ともかく、先生はなんというか、私を含めてこの地域を俯瞰してみておられる気がします」

「俯瞰ですか」

「そうです。私のようなよそ者がここに現れて、ずっと、この地域を大学からみておられる。そう感じていました。私もあの頃は生意気だったと思います。無痛分娩を武器にコンサルタントの紹介でここに来ました。正直なところ、上から目線でした。なんだ無痛分娩もしていないのかって思っていました。でも、先生が県立病院の先生との間を取り持ってくれたことは大きかった。結局、早産とか、出血とか、なにかあればひとり開業医では対処できませんから。この十数年、色んな方にお世話になってそのことが身にしみました。先生は大学におられるので、県立病院の人事もそうでしょうし、ここが地元ですから医療事情もよくおわかりでしょうが、なんだか、ずっと外から冷静に見られているような気がしていましてね」

そういうと、水田は立ち上がった。

「これから、時間を見つけては県立病院もそうですが、大学にもご挨拶にいきます。浦沢教授にも予めお伝えくださると助かります」

水田はそういうと、この地域では昔から親しまれている饅頭の入った紙袋を祐輔に渡した。

「先生にはありきたりでしょうが、ご挨拶代わりにお受け取り下さい。またご連絡いたします。その際はよろしくお願いします」

深々と礼をすると水田は閑かに帰った。バールホワイトのベンツが駐車場を出て行くのを見送ると祐輔は院長室に戻った。

小さな8個入りの箱の紙袋が二つと16個入りの箱が二つ入った紙袋が机におかれていた。父と自分、そして医院のスタッフ用ということだろう。以前の水田なら洒落た洋菓子を持って来ていたかもと思いながら祐輔は自宅への家路についた。

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