19年前のあの日、あの時、停電だった

教授室の窓から

今、西日本の各地で豪雨のよる被害が報道されているなかで、このようなニュースがあるといつも思い起こされることがある。1999年921日頃から24日にかけて、九州・中国地方は台風11号の災禍にみまわれた。熊本県の有明海沿岸の高潮や山口宇部空港の冠水などは報道されたが、実は当時私が勤務していた山口大学病院でも大変なことが起きていた。山口県宇部市に位置する山口大学病院は、真締川という宇部市を流れる河川の側に立地していてる。平野部を流れる川は、流れも緩やかで、間もなく瀬戸内海に注ぐということで、川というイメージよりも河口に近いかもしれない。春には桜並木で花見が模様される長閑かな風景を醸し出す。当時、私は産科医としてキャリアを重ねるスタートをきったばかりであり、と同時に新生児集中治療室の医師も兼ねていた。地方の病院では未熟児を扱う新生児科医は不足しており、産科医が、分娩後にそのまま小さな赤ちゃんを抱っこして保育器で蘇生することも多かった。私もその一人として二足のわらじを履いていた。台風が迫ってくるなか、1000gに満たない児の分娩が始まろうとしていた。できる限り妊娠期間を延長することが、児のためには望ましいが、それ以上妊娠の延長ができない状況だった。母体を分娩室に移送し、万全の体制だったはずが、突然にその事態が訪れた。病院が停電になったのだった。台風による雨雲の影響と、満潮に近い時間帯の影響で真締川が氾濫した。氾濫した水は大学病院の敷地内に流れ込んだ。それだけならいいのだが、大学病院内に引き込まれていた中国電力からの電源ケーブルがある漏電し、非常用電源に頼るしかなかった。
分娩室や集中治療室、手術室は、一般の病棟と異なり、非常用電源用のコンセントがある。これは、いざという時に非常用電源を優先的に使用できるようにすることで不測の事態に備えるためである。と同時に、無停電電源というバッテリーのコンセントもあり、多くの集中治療に必要な機器はそこに繋いである。一般電源から非常用電源に切り替ええるさいは、わずかながら無通電の状態が生じる。そうなると コンピュータ管理されている集中治療機器は、止まってしまう危険性がある。そのため、バッテリーにつないであるのだ。そろそろお産という段階で、分娩室は非常用電源に切り替わった。天井のライトは消え、ほのかな非常用のライトが灯った。当然、無影灯という明るい処置用のライトは使えない。しかい、その中で小さな命は生まれようとしていた。私はいそいでそばのNICUに向かった。幸い新生児集中治療室は非常用電源で稼働した。1000gに満たない児は当然のように人工呼吸管理となる。人工呼吸器が停電で動かなくなれば大変だ。臨床実習の医学生に手伝ってもらい、懐中電灯で妊婦の産道を照らしながら、小さな命が誕生した。すぐさま人工呼吸をしながらNICUに移送した。NICUでは、人工呼吸器に児の肺まで入った気管挿管チューブをつないで、呼吸の補助を開始するとともに、点滴をとったり、様々な処置を行った。しばらくすると、人工呼吸器がけたたましいアラーム音を鳴らした。何が起きたのかわからないが、児へ供給されるはずの酸素を混同した空気の圧がさがっている。「なにが起きたのだろうか」悩む間も無く、手動による人工呼吸を開始した。手動、つまり、手押しである。一分間に30回から60回、児の状態にあわせて適切な回数と圧力が必要だ。手が離せないため、手押し、いわゆる、バギングをしながらナースや研修医に医療器械の業者と連絡を取るように依頼した。どれくらい経過したかわからないが、担当業者の方がNICUに入ってきた。そして恐ろしいことを告げた。「先生、人工呼吸器の作動は異常はありませんが、問題は供給されている圧縮空気です。どうやら病院の冠水の影響で、圧縮空気を供給するコンプレッサー自体が壊れたため、病院内への圧縮空気の供給がダメになっています」そう、真締川の氾濫によって、1階か2階かに設置されているコンプレッサーが冠水したのだ。人工呼吸器は、施設内に張り巡らせてある、酸素と空気の供給口に接続することで稼働する。しかし、そのおおもとがダメになれば稼働しない。コンプレッサーには備え付けと一時的に持ち運びができるものがあるが、持ち運びできるものは夜中には手に入らない。しかも九州自動車道は台風の影響が出ているため、すくなくとも半日以上は手に入らないとのこと。そこから人海戦術が始まった。バギングとは、挿管チューブに繋がっているバッグを押して児の肺に適切な空気を供給することが。実は手押しは理想的には最も望ましい人工呼吸法と言われるが、それを長時間はできない。まだ医師になって9年目の私と駆け出しのレジデントで持久戦が始まった。人工呼吸器が稼働できるまでの間、小さな命を助けるべく、文字通り不眠不休の戦いが始まったのだ。
手を休めることはいっときたりともできない。疲労と睡魔との戦いだった。結局、30分から1時間程度毎に交代しながら1日ぐらいはバギングをしたいたような気がする。夜は開け、明るくなり、そした日が落ちる頃に、コンプレッサーが到着し、翌日には病院全体の医療ガスの供給が復活したように記憶している。ともかく、児はその後救命でき無事に退院した。2泊3日の泊りがけの必死の救命の甲斐があった。疲労と安堵の中、帰宅のために病院の駐車場に向かったところ、愛車は海水に冠水して廃車以外の選択肢はないという姿で私を待っていた。

コメント

タイトルとURLをコピーしました