死への怖れ-つれづれなるままに

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は様々の影響を与えているが、私からすれば目に余るのが、医療従事者や感染者やその周囲の人々への差別的発言である。
どうして人はそんなにも無遠慮なことが言えるのか、自分が感染したときに結局は関わらざるを得ないかもしれない人々を非難するとは、なんと自己中心的なのだろうか、と思う。
ただ、どうして人はそんなにも凶暴な性格を表すのだろうか、とずっと考えてきた。

この社会的現象とも言えることは、エイズ、新型インフルエンザのときにもみられたもので、他の疾患と異なり、感染症に特有といえる。

人は生まれた時点ですでに100%の致死率である。といっても赤ちゃんの誕生の瞬間に「おめでとうございます。この子はいずれ死にますよ」とは誰も言わない。ただし、誰も生まれたときから死を意識して生活している人はいない。
子供の頃に祖父母の死、ペットの死などに接することで次第に「生き物は死ぬんだな。人も死ぬんだな」と意識するようになる。
といってもそれはまだまだ他人事である。自分でもそうであるが、年齢を重ねるにつれて他人事の度合いが少しずつ自分へ近づいてくるが、それでも自分事にはならない。

漱石の描いた死

2月から3月にかけて次第にCOVID-19の感染が拡大してきたが、中国、アメリカ、イタリアの出来事であり、横浜港に停泊しているダイヤモンドプリンセス号の内部のことであって自分達には遠いことだと思っていた人が大半だろう。
実際、3月下旬の連休は各地で人手で賑わっていた。

しかし、志村けんさんや岡江久美子さんの死の報道あたりから「他人事ではない」という意識が強うなってきたのだろう。
私は、岡江久美子さんの報道を耳にしたとき、漱石の三四郎の中で描かれている光景が目に浮かんだ。
三四郎が野々宮家を訪れ、夜を過ごしていると近くの線路で自殺があった。自殺者の最後の声をきいたかもしれない三四郎はその死をこう感じていた。

人生という丈夫そうな命の根が、知らぬ間にゆるんで、いつでも暗闇へ浮き出していきそうに思われる

漱石は、この一文で、人の死が誰にも身近にあることをあらわしたのではないか、と私は解釈している。

現代人にとって死は、情報としての死として理解されているが自分事の死になっていないのだろうと思う。誰かが癌で死のうと、自己で死のうと、殺されようと、どこか他人事である。地震や洪水でも被災地でない場所に生活している人にはどこか他人事である。
一方、感染症は人を選ばない。患者数が徐々に増え、自分の地域に感染患者が増え出すと、急に自分事になってしまうのだろう。
いつ自分の「丈夫そうな命の根が暗闇に浮き出していくか」と思うと不安感に苛まれ、それが他人への攻撃になるのかもしれない。

アーネスト・ベッカーのとらえた死

フロイトの系譜を継ぐベッカーは、1973年に「死の拒絶」という本を記している。1974年にピュリツァー賞を受賞した本でアメリカでは話題になったらしい。
この書物の中でベッカーは興味深い考察をしている。

死が人間活動の推進力であり、人間活動の主な目標は、死が人間の最後の運命であることを否認・拒絶し、それによって死を克服することにある。死の怖れに焦点を置くことによって人間の行動を明晰に理解できる

私は精神分析は門外漢であり詳しいことはわからないが、ベッカーの考え方を借りれば、深層心理に横たわる「死への恐怖」を今回の感染症があぶり出しているのかもしれない。

医療現場で起きている現象の一つが、軽度の慢性疾患を抱えた高齢の患者さんの受診が減っているという状況である。高血圧、肝機能異常、腰痛、腹痛などの訴えで、定期的に受診する方は少なくない。
私の専門である産婦人科では「お腹が痛かったことがあって友達に話したら婦人科じゃないかと言われてきました」という受診も少なくない。受診時にはすでに症状は消失し、がん検診の結果を伝えると「よかった。癌じゃなかった」と安堵する高齢の方は多い。
「死への恐怖は何歳になっても残っているんだな」といつも思う。現代医学を駆使すれば、そう簡単には人は病死しない。進行した悪性腫瘍でもある程度の死へのプロセスが踏める。ところが今回のCOVID-19で報道された人の死はあまりにもそのプロセスが短く、まるで他人事であるはずの事故死のようなプロセスが、しかも自分にいつ降りかかってもおかしくない、という恐怖を抱かせる。

新渡戸稲造による武士の死

新渡戸稲造は国際連盟(連合ではない)の事務次長まで務めた日本を代表する国際人である。一つ前の五千円札の肖像画として私も親しんできた。
彼が流暢な英語で、BUSHIDO: The Soul of Japanを記したのはすでに120年前で彼自身の日本語版はないが、日本語訳としての「武士道」は日本人の魂を語った書物として有名である。

新渡戸は武士の切腹をある意味では賞賛していない。武士の世界には現代社会とは異なる何にも変えることのできない忠義という上下関係があり、その中での切腹という命令は避けることのできない位置づけだった。
ただし、むやみに死ぬことを美しいとは述べていない。

真の名誉とは天の命ずるところをまっとうすることにある。そのために死をまねいても不名誉とはされない。

といい

天が与えようとしているものを避けるための死は卑劣きわまりない

と述べている。

そして、サー・トーマス・ブラウンの医道宗教からの一文を引用している。

死を軽蔑するのは勇気の行為である。しかし、生きることが死ぬことよりいっそう困難な場合は、あえて生きることが真の勇気である

残念ながら、COVID-19による死は、天のめいずるところのものでもないし、天が与えようとしているものにも思えないと私は思う。おそらく大半の人が同意されることだろうが、誰もこの事態を天命と考えてはいないだろう。

現代人に武士道の精神が備わっているかと言えば疑問ではあるが、武士道があったとしてもこの事態を閑かに受け入れることは難しいだろう。

E・キューブラー・ロスの描いた死

ロス博士の「死ぬ瞬間 死にゆく人々との対話」はあまりにも医療界では有名な書物である。死の心理学に対して多大なる功績があることは誰も疑わない。

彼女は数多くの末期患者へのインタビューを通じて、患者が死を捉える心理段階を分析した。詳しくは実際の著作を読んで欲しいが以下に概説する。

ガン患者が死を認識させられる状況を告げられた場合、第一に否認と隔離を行う。「こんなはずではなかった」「それはうそである」他人事であって自分事では決してないという心の段階である。
次に、怒りである。「どうして自分だけが」「どうしてあのひとじゃないのか」という段階である。
その次が、取引である。彼女も著作の中でこの段階はとても短いかも知れないと述べているが、「どんな約束でもするから」といった感情になる。

しかし、どんなにあがこうとも診断は確定し病気は進行すると、抑うつの段階に移行する。

そして、すべての運命を受け入れる受容の段階から希望への至る。

しかし、彼女もその他の多くの著作でのべているように、すべての患者がこの段階を経るわけではないし、それぞれの段階の長さも人によって異なる。中には初期の段階のまま死を迎える人もいる。

トルストイの描いた死

トルストイは「イワン・イリイチの死」という短編小説の中で、イワン・イリイチという裁判官が死を迎える過程を描いている。
トルストイの時代に、ロス博士の死の心理学的分析などはまだなかったが、この物語を死の心理学的分析を思い浮かべながら読むと興味深い。裁判官にまでなったイリイチは最後まで苦しみ、拒絶し、怒り、そして、死の間際に受容する。

残念ながら、COVID-19による死へのイメージには、これらの段階を経る期間もないと捉えられているのが現実だろう。
人は死への恐怖を抱きながらも、あまりにも早い死の過程は避けたいのかもしれない。実際、志村さんや岡江さんの報道では、本人に死の意識はなかったと伝えられている。

池田晶子氏の死

早逝の哲学者、池田晶子さんは私が哲学をかじる上で(あくまでも囓るだけの未熟である)、大きな影響を与えられた方である。
「帰ってきたソクラテス」は有名な著作ではあるが、「死と生きる 獄中哲学対話」「新・考えるヒント」などもおすすめである。是非中高生に「14歳からの哲学-考えるための教科書」を読んでもらいたい。私は41歳の時に「41歳からの哲学」を読んだ。

彼女は腎臓がんと戦っていた。その中で、死について数多くの考察を遺しているが、彼女は「死は怖くない」と語っていたのが印象的だった。
「死とは存在しなくなること」であり「存在しない」ということは「死を怖がる感情さえなくなる」という。

確かに自分が今考えているからこの世界がある。自分が死ねば、自分がいるこの世界もなくなるため、自分が死んだのに自分が感じることのできる世界はない。

そう言われればそうだが、なんとなく死は怖いというのが正直なところだろう。
ベッカーのいう死への怖れが深層心理にあるのだろうか。

剥奪としての死

だらだらと述べていても結論の出ることではないし、自分の死がどうして悪いのか、どんなふうにわるいのかは、ずっと考えることだろう(ある程度の時間、考える時間があればうれしい)。そろそろブログを終わりにしたいが、イエール大学のシェリー・ケーガン教授の「DEATH 死とは何か」を最後に紹介したい。死とは何なのか、死は悪いのか、などの疑問に対して講義形式で彼の考えを解説してくれる。あくまでも自らの死についての考察である。

彼の著作とずれるが、他人の死、特に身近な人の死は哀しい。

それは自分の世界における一つの存在であり、死によって一つの存在が非存在へと剥奪されることにあるからだと思う。

あたり前のような存在が急に剥奪されることは耐えがたい。

最近急逝した仲間に捧ぐ

 

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